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【7話】せめてウサギは逆しまに【ディストピアSF小説】

世間の隅っこの貧民街。社会の忘却に沈められる貧困場。
その中でも、ソコは酷い場所だった。四方を高い壁に覆われた四畳程の臭気の吹き溜まり。一方向だけは僅かに隙間が有るが、人一人が通れるかどうかという細さだ。

見上げれば、四角く切り取られた空。地面では食べ終わったコンビニ弁当がごみの山を作っている。他に目に付くモノといえば、棚として使っている壊れた冷蔵庫が備え付けられているくらい。

「……」

この寂しい場所が遊沙の十年間住み着いている寝床だった。ベッドもなく、屋根もない。誰が尋ねてくる事もなく、誰かを招いた事もない。
家と言うには愛が足りず、道というには欲が足りない。他より風が凌げるだけの無価値な場所だった。

「………雨降ってきた」

壁にもたれて眠っていた遊沙は、雨の冷たさに目を覚ました。見上げれば神様が唾するように水滴が垂れてきていた。瞳に入ってきた雨に鬱陶しそうに眉を顰めた。

十年前、五歳の時に両親を殺された。相手は誰か分からなかったが、両親の様子から働いていた会社の人達なのは察せた。
そいつらは両親を殺した後、遊沙を追い掛けてきた。必死で逃げ、上級街を出て、貧民街に逃れ落ちた。その時に最初に夜を明かしたのが、ここだった。

見慣れぬ町、失った家庭、恐怖の世界。
眠れる筈もなかったし、泣き声を殺せる筈もなかった。しかし両親の死体を見て、頭が真っ白になって、追ってくる何かから逃げて、逃げて。幼い遊沙は身も心も限界で、せめてこの景色を遮ろうと、壁に凭れたまま瞼を閉じた。

そのまま時が過ぎ、夜が消え、太陽の赤い光が空の色を変えた。
柔らかいベッドで、カーテン越しに漏れ出る朝日に目を覚ます。目を覚ましても布団から出る事が出来ず、結局母親に毛布をはぎ取られる。泣く泣く朝ご飯を食べ、支度をし、父親の車で幼稚園に送ってもらう。

そんな朝は無くなった。
瞼を通して目に沁み込んできたオレンジ色を感じた時、ここが自分の住む場所になったのだと認識したのを覚えている。

それは覚悟ではなかった。
それは諦めでもなかった。

自分の前にある世界はそれでしかなく、他の道はないのだと思ったのだ。

それ以降、遊沙はこの町で生き続けている。
それ以来、遊沙はこうして立ったまま眠る。

薬で昏睡していた数か月を除き、あの日から一日とて横になって眠ったことはなく、誰かを信じて熟睡したこともない。

「……最悪」

微睡から覚めた遊沙は、先程まで溺れていた夢を思い出す。
大穴となった団地を占拠していたブルーファイアは手強く、リングとの間にも長い抗争が続いていた。沢山の仲間が死んだ抗争に終止符を打つためにリングの取った手が、団地の爆破だったのだ。

簡単な作戦ではなかった。場所は敵の本拠地だし、爆弾の材料も簡単には手に入らないので、仕掛けられる数は知れていた。
その為に活躍したのが、遊沙だった。カメラを持って団地を走り回り、住人と仲良くなって多くの事を聞き出した。その報告を基に仲間が団地の図面を書き上げ、重量を計算し、偵察部隊に爆弾を仕掛けさせた。

「……知らなかった」

遊沙の知っている爆弾とは、ボカンと爆発し、壁を壊す程度のモノだった。仕掛けた爆弾も、たしかに普段と変わらないそれだった。
しかし、圧力が掛かる部分や柱に正確に仕掛けられた爆弾は建物を倒壊させ、両端の三棟を除く全てが崩落した。

砂で作った山の様に崩れていく団地を見て、最初遊沙は自分のしたことだと気付かなかった。しかし周りから褒められて、瀕死の住民達から怨嗟を浴びて。破壊の大部分を自分が行ったことを知った。

悪夢だった。夢が覚める直前の出来の悪い狂騒。皮膚の下を這い回る冷たい鉄が、痛みを持って意識を苛んだ。足元が溶けた硝子になり、体が沈み、同時に浮き上がる不安定さを覚えた。一生付き纏うと理解できる不快感が、遊沙の現実を食い潰した。

自失として動けぬ遊沙の目の前で、多くの死体が作られた。爆破に巻き込まれた者。柱の下敷きになった者。瓦礫に頭を潰された者。そして奇跡的に助かった者。
その全てが殺された。血塗れで蠢いていた人達も、比較的綺麗だった死体も、亡骸に縋り付いて泣いていた子供も、等しく細切れになった。

『私が殺したんだ。全員を、引き金を引かず』

自身への嫌悪が止まらなくなった。自分の肌も、髪も、臓器も、血も、全てそこにあるのが堪らなくなり、喉も壊れよと絶叫した。
目を覆っても染み込んでくる紅、耳を塞いでも聞こえてくる悲鳴。髪を振り乱し、声を振り絞っても消せぬ景色。

耐えられなかった。普通で居られなかった。逃げ出したかった。
けれど、最も嫌悪する相手は自分だ。どこに行ったって離れてくれないし、どれだけ経ったって許してくれない。

気が付いたら手元に転がっていた抑制剤の浸透口を頭に挿していた。腕に注入するだけで、イッテしまう強力な一物。それも何度かに分けて注入できるタイプだ。
それを頭に一気に押し入れた。

数人の――が止めに入ろうとするのが視界にチラつき、世界が停止した。雲のような眠気が体中を巡り、意識は割れたテレビの様に壊れていく。

全てはゴミのように光り、音も立てずに崩れていった。
罪を贖うこともなく、罰に抗うこともせず。
贖罪を果たすことはなく、誰かのために祈ることもせず。
ただ自分を失い、真っ白な世界に放り込まれた。

次に目を覚ましたのは、アジトの医務室だった。
いや、実の所は、目など覚ましていないだろう。
寝ぼけた眼のままどこを見ても、世界はぼやけていた。とても危険で、鋭く、虹色に光る現実はそこにはなく、ぼんやりと光に照らされる影があるだけだった。

どんな逆境でも、強い意志を持って世界に抗ってきた。
いかなる困難も、挫けぬ信念を以て突き崩してきた。

そんな自分は居なくなり、ベッドの上に存在したのはただの化け物だった。
意識を失う前に焼き付いた光景を思い出しても、『私』の心は乱れなかった。それどころか、その光景の何が苦しいのかも分からないという感想さえ心に在った。

脳味噌の機能が停止しているみたいだった。起きている筈なのに、現実をコントロールできなかった。一体自分は何処に存在しているのかと、間抜けな思考を吐き出した。

しかし、ふと、ある瞳を思い出した。

情報収集で団地に潜入している時に、孫のように自分に接してくれた女性の目。彼女が死ぬ直前の、燃えるような恨みの目。
瞬間、自身に対する嫌悪感が想起され、自分の重さに気が付いた。吐き気を催し、胃液と血が汚いシーツを濡らした。
頭を壁に打ち付け、手の肉を噛み千切り、走るに任せてアジトを飛び出した。

そうでもしなければ耐えられなかった。
いや、そうしたって耐えられなかった。

「……まだ眠い」

言葉は絞り出せず、無言で空を見上げる。
地に落ちるしかない雨は、遊沙の眠気を奪っていく。

無情というには無感情に。優しくというには無感動に。遊沙の体温を剥ぎ取っていく。
落下ばかりする水に飽きて、自分が上に落ちている夢を見て――

「…………うく……ひぐっ……」

――冷たい雨に微睡は拭われ、化け物は目を覚ました。

「やっちゃった…やちゃったよ……!!」

涙が止まらない。嗚咽が収まらない。

「ああ~~ん…なんでよ~……!勿体ないよ~…三十万……だよ?」

要らないと目を背けた分厚い封筒。毎日万引きしていた店に置いてきた一万円。
自分が何故あんな事をしたのか理解できず、混乱が頭の中を巡る。

「最悪のお金だよ?吐き気がする報酬だったよ?でも、お金だよ!どうして、持ってこなかったの!気に入らない仕事だったし、いけ好かない奴だった!
でも、そうやって生きていくしかないの!毎日身を削って、心を折り曲げて生きてる。夢を見ながら、現実を支えてる!だったら、せめて夢に近付くためのお金が貰えることしないと!
三十万円だよ?毎日二百円のお弁当買ったって……分かんないけど、生きていける!どっかに家だって借りれた!ううん!あれは一仕事の報酬だもん!もっと貰えたんだよ!町に家を借りれたかもしれないし…帝都に家を買えるようなお金…溜まったかもしれない!
一千万円あったら……買えるかもしれないんでしょ……ええと……」

遊沙は熱い涙を流しながら、指を折り曲げて考え込む。

「三十を三回で百位でしょ?え…と……百を十回で千?……三十回で家買える!嘘!嘘でしょ!!?」

思いもしなかった真実に震えた。
胃が押し潰され、さっき食べた弁当が逆流してくる。

「なんで、もう行きません!みたいなこと言ったの!私!!嘘でしょ~~!!」

遊沙は天に剝き、絶叫した。喜劇の様な、悲劇の慟哭。
雨は笑いすらせず、遊沙を濡らしていく。

『この世界が完璧ならば、不完全な人間が必死に生きる度に世界は歪んでいく』

彼女の信念は雨粒から美麗を剥奪し、静寂から高尚を消失させ、雨空から輝光を失わせる。

何が正しいのか?何が間違っているのか?
自分の人生は何点なのか?あいつの人生は何点なのか?

世界は丸付けなどしないのだから、考える必要はないと――は啼く。

嘆き、悲しみ、自らを恥じず。
生き汚さを誇る彼女に、神様の意思は分からない。
無知のまま浸走る彼女に、世界の構造なんて知り得ない。

それでも賢明なこの世の中に、汚い自分は必要無いと言うのならば。
自分は世界を濁しながら、生きてやろうと思うのだろう。

ああ、全てが順当に落ち行くのなら、せめて自分だけは逆しまに落ち行けと。

「それが私じゃないといけない……この世界を濁らせながら、へらへら笑う」

それが自分だったと、脳味噌の片隅で痛みが訴える。
それなのに理解もしないのに難しい顔をして、分かりもしないのに思考を捏ね回して。

「そんな事、壊れた脳味噌では出来もしないのに」

――黙れ!

両腕を失ったモノにボクシングは出来ない。両足を失ったモノに徒競走は出来ない。
同じく脳を欠損した遊沙には、マトモな思考など持ち得ないのだ。

薬によって脳の機能が落ちるとは、その様な致命的な損失に他ならない。弱体を補う器官など生成されず、弱化と引き換えに強化された能力もない。
純然たるグレードダウン。生きていくだけで精一杯で、無駄にできるリソースなどない。理性を操ったり、何かを学んだり。そんな無意味が出来る奇跡などないのだ。

――黙って!

その現実を受け入れられず、寝ぼけたように生を潰す。
理性あるように振る舞い、しかめっ面で過去を求める。

「それが無駄だって、言われなくても分かってるって言いたいの?」

どちらかの口が独り言を呟く。
どちらかの怒りが、熱も生まずに消えていく。

「…………どうでもいいけど」

雨が降り続いていた。強くなるのではなく、止む訳でもなく。手向けの様に積もっていく。
地面を叩く水音は耳障りで、空を切る水滴は鬱陶しい。

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