本来無一物?

禅宗は達磨大師を開祖として二祖慧可.三祖僧璨・・・・と
次の代次の代へ引き継がれました
しかし五祖弘忍の後継者六祖の座をめぐって
慧能と神秀が対立し禅宗は南派と北派に分裂します

この後継者争いの話が面白い
五祖弘忍は700人の弟子たちにこう告げる
「お前たち壁に偈(げ 自分の悟りの境地を示した詩)を書け
 一番優れた偈を書いた者を次の六祖とする」

弟子筆頭と呼ばれていた神秀が自信満々に次の偈を壁に書く

身は是れ菩提樹
  (この身は菩提(悟り)を宿す樹である)
心は明鏡台の如し
  (心は曇りのない明鏡のようにすっきりしている)
時時に勤めて払拭せよ
  (だからいつも精進して心を払い浄めなければならない)
塵埃を惹かしむること莫れ
   (そのために煩悩妄想の塵や埃で汚さないことである)

「さすがは神秀さんだ」みんな神秀を褒めた

ところがその寺にいた弟子でもなく剃髪もしていない
雑用係のろくに字も書けない米搗き男の慧能が
この偈の横に自分の偈を書いてもらう

菩提もと樹無く
明鏡もまた台に非ず
本来無一物
いずれのところにか塵埃を惹かん

本当の悟りってのは
自分の体が菩提樹だとか
自分の心が明鏡だとか
そんなことをちまちま考えているとこにはないぞ
塵で汚れるとか汚れないとか
そんな心配とも無縁の
絶対の境地だ
それが本来無一物ということだ

・・・・・・・・すごい悟りの境地です

私ずっとこの話が大好きでした
カッコいい
スカッとする逆転劇でしょ

まあ神秀さんは自分の負けが納得できず
北派禅宗を立ち上げることになります

私は今この話を読み返してみると
少しなんだかなと思えます

慧能の偈は
ちまちましたことへの執着を
完全に捨て去った完全に忘れ去った
悟りの境地を表現したもののはずです

でもこの偈は
神秀への対抗心反発心の塊じゃないですか
しかも自分が継承者になるための偈ですよ
自分は何にも執着してないとどうして言えますか

禅にお詳しい方からは
厳しいお叱りを頂くかもしれませんが
今私が思いついた戯言だと思ってください

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