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量産化された表現は感情のスタンプ

上記(タイトル)、今日ボーッと考えた持論である。

長年オタクをやっていると、作品やキャラクターを語る、語られる上で「よく用いられる表現」を認識してくる。例を用いると「萌え」「尊い」「エモい」、多少違うかもしれないけど「推ししか勝たん」とかそんな感じのやつ。

1〜2年前の自意識がトゲトゲしていた頃の自分はこれらの表現の事を、逆張り意識と同時に「多用されすぎて価値が磨耗した言葉」と捉え、これらを多用するのは自分は語彙の無い人間です!と表明するのと同義だ!と妙なプライドを発動させていた。

言葉自体にも人によって好き嫌いがあると思うので、それによって使う使わないを決める事は別に悪い事ではないと思う。

ただ、これらの言葉を使いたくなる時の事を考えてみると、何かに猛烈に心を動かされた時に、相応しい言葉が見つからずとりあえず捻り出してみたという状況が多い事に気がついた。いわゆる「限界化」というやつである。(ひどい時は意味のある言語すら紡げない事もあるので「尊い」とか言えてる時点で語彙ある方なのでは?と今思ったりした(感想))

何かものを作ろうとする人間にとって何に感動したか、何が好きかということは心の原風景だと思っている。
そこを原材料にして「自分の作品」が出来上がっていく。
そういう人間にとって「エモい」や「尊い」を見つける事自体に価値があるのである。

だから私は量産化された感動の表現というのは、宝石のような自分の好きを見つけた時に思わず漏らす感嘆の声、そしてとりあえず見つけた事を世界に記すスタンプ(目印)のようなものなのではないかと思ったりした。

人間は見たもの聞いた事があるものからしか何かを生み出せない。
だからとりあえずスタンプを押しておいて、そこから時間をかけ、自分の手で試行錯誤しながらその感情に名前をつけていく。
それが「唯一無二の己の表現」になっていくんじゃないか。

そんな事を今日は考えた。

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