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日記141:「放送大学在学4学期目、掴んだものと教わったこと」

長かった。

何度かこの日記でも書いているけれど、放送大学に在学して今期で4学期目になる。
1学期目は「国際理解のために」、2学期目は「中国語Ⅰ」、3学期目は「錯覚の科学」を、そして4学期目の今期は選科履修生で再入学したので「司法・犯罪心理学」と「障害者・障害児心理学」を履修した。
これまでの印刷教材を思い返してみると、どれも無暗矢鱈に下線が引いてあった覚えがある。開いて読み返すのではなく脳裡でそれを思い浮かべるのは、わざわざ手に取るまでもなく確と覚えているからというのもあるし、あんまりにも恥ずかしいのでもう見たくないからというのも、あった。

失敗が顕著なのは「中国語Ⅰ」だった。だから成長の兆しが一等大きく見えた、光ったのもその科目だった。
中国語を履修した理由は、duolingoや初学者向けのテキストでいくらか触れたことがあったから、興味深く感じたので一度教育機関で学んでみたいと思ったからだった。
結果としては楽しかったし難しかった。けれど、注目すべきなのはそこではなくて、印刷教材を用いた勉強法にあった。
文法の解説を精読する。章末の練習問題を解く。その繰り返しで、楽しさに突き動かされつつも、でも、だからこそ失敗したくないという思いが強くあって、その繰り返しを執拗にやりすぎた。
楽しいから失敗したくないという思い、それはどうなのだろう。わりと一般的な思いだとは感じるのだが、失敗を過度に恐れる私は、それを病的に持っていた。だから勉強が一向に進まなかったし、余暇の中にある勉強にあてる時間をほとんど中国語につぎ込んだので、学び直しに触れられなかったことからストレスも徐々に溜まっていった。

「錯覚の科学」ではその経験を活かそうとした。なるべく気軽な気持ちで取り組み、繰り返して印刷教材を読み、なんとなく強迫観念が薄れていくのを感じ、それでも二進も三進もいかないようなもどかしさがあった。

話は今に戻って今期、心理学2科目。
これは複数とったのが効いたのだということを、かなり初めの方で感じ取っていた。同じことを延々と繰り返すことの不得意さは、やはりこれまでの経験で痛いほど感じ取っていたので、この段階で結構な成功体験を得られたとよろこびがあった。
元来こういった分野の専門書を読むことは慣れていたし、好きだった。だからとっつきやすさがまずあった。なるほど、こういう履修の選び方もあったのだなあと思った。

大きかったのはふたつ、勉強に用いるものと、それと今日やってみた穴埋め問題の作成だった。
これまで勉強には基本的にノートとペンをひたすら使っていた。日記121:「4年分の勉強ノートの処分」(https://note.com/tukidekka/n/n6b1042c1a19a)でも書いたように、私のこれまで積み上げてきたノートの量はすさまじく、ゆえに手放しがたさもあったが、それ以上に手指が限界を迎えかけていた。指にタコができ、側面が凹み、これをどうにか変えれば勉強の快適さも変わるだろうと思った。
そういうわけでデジタル化に移行し、パソコンやタブレットを主な筆記に用いたところ、取り組める時間や量も増えたし、まとめ方もだいぶうまくなった。
穴埋め問題自体は1学期目からやってはいたことだった。それでも下線引き同様に執拗な面が大きかった。
今日、やや迷って問題作成をしたのだが、ああ、と思った。私のここまでやってきたことの集大成のように感じた。
線が引かれた部分のピックアップの的確さ、まとめのテクニック、精読によって前後の内容がちゃんとまとまって理解できた。

失敗をしている最中というのは、本当にしんどい。今こんなことにどうして取り組んでいるのか、やめた方が効率がいいんじゃあないか、時間の無駄でしかないだろう…という思いが次々に湧き、強化されていき、そして形を変えてはループしていく。
でも、それが実際に無駄になることはあんまりない。物理的に、あるいは記憶に、どこかに必ず痕跡が残されていて、それを踏襲して自然と歩みを進めていく。そういう風に生きていく、生きていけるようになっているのかもしれないということを、放送大学では4学期目にして教えてもらえたのかもしれなかった。

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