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【短編小説】金魚

 近所の神社の参道は桜並木で、毎年春になるとそれを見に行くというのが恒例行事になっていた。

今年もその桜を見に行こうと思っていたのだが、なぜか思うように時間が取れず、見ごろを過ぎてしまった。

今週末にでも見に行かなければもう今年は桜を見れないだろう。さらに悪いことに、週末は雨が降るというので、今夜でも見に行かなければ他に機会もないのだ。

こういったことは私の人生を通していくたびも起きてきた。その度に私は打ちひしがれ、心のどこかがメリメリと音を立てて破壊されるのを感じた。そして毎度のように、今度こそ失意のあまり死んでしまうのではないか、と思ってきた。今回もまた、同じような結末をたどることになるのだろう。

しかし一向に死なないのは人間が案外丈夫だということなのか、私がこのひ弱な精神に釣り合わない、屈強な身体を持ち合わせているためなのか、未だにわからない。いい加減、このちょっとした不幸のたびに訪れる茶番をなくしてしまいたいのだ。

その一方で、か弱い私はこうも考えていた。つまり、このような繊細さこそ人間の人間的部分であり、大多数の人間がそれを摩滅させて楽に生きる中、いつまでも修羅の道を歩む自分こそ、真に人間たり得ているのではないかというようなことである。

生憎なことに、こんな日に限って教務の用意がなかなか終わらない。心なしか最近残業が増えている。こんな具合に、気づくか気づかないかという量の仕事が少しずつ増えて、自分の心も少しずつ摩耗してゆくのだろうか。

そんなことを考えつつ仕事をしている。こんなことでは当然、遅々として進まないので帰るのもおそくなってしまう。誰のせいでもない。自分の人間性をほめたたえつつ、それによって仕事がはかどらないために、人間性を消してゆく羽目になる。今の自分はそんな不甲斐ない日々を送っているのだ。哀しい哉、抜け出すにも抜け出せない。

 最寄りのバス停から家まで歩いた。空には土色の雲が立ち込めており、大気は犬の息のように生暖かく湿っぽかった。街全体が浮かれた空気に包まれたようで、そこら中に怪しげな力がみなぎっている。

これが春の妖気なんだろうかと思った。そんな妖気にあてられたことだけでなく、思うに任せない毎日への鬱憤も手伝ったのだろう、部屋に入っても私はじっとしていられなかった。

大きく開けた窓から妖気がヌルヌルと這い寄って来る。

そうこうしているうちに時間が過ぎて、不甲斐ないままに朝になって、また日が沈んで、また胸ぐるしくなって、どうしようもなくなって、寝てしまって、朝になって、昼になって、夜になって、、、。

頭の中でこの先おとずれるであろう景色が、凄まじい速さでスピンし始めた。小間切れの景色の断片の一つ一つはもはや認識できなくなって、全部がごちゃ混ぜになってヘドロみたいな色に変わってゆく。ブーーンと音を立てて回る独楽のように、私の人生が超速で過ぎてゆく。狂ったような風が吹き起こって、手元の新聞紙がバタバタと飛んでゆく。独楽の軸が畳をぐりぐりとえぐってゆく。ほどなく独楽はバランスを崩して、コテンと倒れた。それと同時に独楽の原型はなくなって、禍々しい色の液体と化してドロドロと畳を汚した。

悪寒で思わず顔をそむける。もう家の中には居れなくなって、飛び出すように家を出た。

 外では雲がずーんと垂れこめてきていた。気圧が下がっているのがわかる。家の裏手の狭くて暗い砂利の路地を通って行くと神社の林がすぐそこに見える。この道は一見袋小路だが、途中のブロック塀に人一人通れるくらいの隙間がある。これは私がこの町に住みつくずっと前から存在していたようだ。

そこを抜けた先は砂利の広場になっており、数件のバラック小屋と小さな社がある。バラックには長らく人が住み着いていないように見えるが、老婆が一人住んでいる。一度だけ、彼女が家に入ってゆくところを見た。

社は今目指している神社ではなく、バラックに埋もれるように建っている質素なものである。非常に謎の多い土地である。この小さな社を背にして目指す神社が建っている。社の前の道は本殿の裏手の小路へつながっているのだ。私はいつもこの道を使って神社に行く。

 境内に出ると、凄まじい光景が目に入った。折から出た月が参道と境内の砂利を茫洋と浮かび上がらせる。無数に咲いた桜の花弁がひときわ明るく雪のように映し出される。

ほかのものは皆、しっとりと黒く暗くうずくまっている。しかし眠っているわけではない。耳をすませば、草木という草木が押し殺したような息遣いをしている様が手に取るようにわかる。

大気、植物、大地、すべてに異様な興奮が宿っている。むっとするような風が顔を撫でる。その風は急に足を速めて、びゅうっと私の正面から後ろにすり抜けたと思うと、すぐ切り返してきて足をすくわんばかりに強く吹いた。

ドッと大地が震え、パッと桜花が舞い散った。

鈍く月光を反射しながら無数の花弁が落ちてゆく。その奇跡のような光景の中に私は突っ立っていた。

あたかもスノードームの中かのように、桜花が静かに降り積もってゆく。その花吹雪を縫って何か大きな影が近づいてくる。

月の光を背に受けた、得体のしれない巨大な影に恐怖して立ち尽くす。

それは全身を強張らせている私のすぐ横を、スッとかすめて通って行った。

刹那、花弁の間から紅色の流線形が垣間見えた。

黒地に白い斑の空気を縫って紅色が駆けてゆく。ふっと姿を見失ったと思ったら、それは目の前にいた。

案外おとなしくて、淑女な金魚だった。

なんという種類なのかはわからなかったが、尾ひれが異様に長く、ひらひらたゆたっているのが特徴的だ。

彼女は感情の浮かばない目でじっとこちらを見てくる。私は本当に認識されているのだろうか。

そこはかとない不安。

流線形の側面からはどうやって見えるのだろう。彼女が少し顔を左に向ける。右目の闇が包み込むようにこちらへ向かってくる。

虚ろだった。

私の心を映したように。

双方身じろぎをしないまま時間が過ぎる。一時間も立ち尽くしていたかもしれない。あるいは数秒だったかもしれない。その間何を考えていたわけでもないが、私はその虚ろに向かって、憧れるように手を伸ばしていた。

くすんだ水晶体に閉じ込められた暗闇に触れようとした。

指先が瞼のない目に触れた途端、心に冷たい風が通った。寒風に当たった身体がバラバラに崩れて倒れる。美しい切断面がギラギラと艶めかしく光っているのを、私はどこか遠い視点から眺めている。

崩れた身体の中からむき出しになった心がゆっくりと浮かび上がる。それは朧月のようにぼんやりと光る塊だった。歪ながらも、ちゃんと私の中に存在していたのだ。私はその姿がたまらなく愛おしく感じて涙した。

これまでその光が傷つけられ、遮られてきた一瞬々々が、走馬灯のように流れだす。そして今こそ、それが世界にただ一つしか存在しておらず、何にも代えがたいことを知ったのだ。

私は居ても立っても居られず、ゆらゆらと上昇する心を掴んで飲み込んでしまおうとした。

けれど私の手が触れるずっと前に、それは非情な目の持ち主に、パクリと飲み込まれた。同時に淡い光も潰えて、私は脱力した。

目の前に無表情な金魚の顔がある。必死に歯を食いしばって立っているけれど、寒気におかされて足が震える。息苦しさがおさまらない。体の中心にとんでもない陰圧を感じる。内側に向かって潰れそうだ。声も出ず、うずくまるを私の横をその美しい魚はすぃっと通って行った。尾ひれが耳を、首筋をかすめてゆく。それも凍えるように冷たかった。

 少ししてようやく私は立ちあがった。もう胸はうずかなかった。消えてしまったから。

恐ろしいはずなのに、苦しいはずなのに、何も感じることはなかった。

そして悟ったのだ。

これからは、人間の中で誰よりも楽に生きられると。あの素晴らしく大きな魚は私に生きろといったのだ。

どんな善行を積んできたわけでもない私に対して。なんとも生きるのがへたくそな私に対して。彼女は何を思ってこんな施しをしたのだろうか。

うれしいとも何とも思わなかったが、それでも前途は暗くないのだろう。

散った桜を無造作に踏んで私は帰る。これからは誰よりも安定だ。そう思った。

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