【つながる旅行記#276】缶詰記念館で缶詰の歴史を学びまくる【はごろもフーズ】
前回は清水港や船について知り、最低賃金の導入は国よりも缶詰業界が先んじていたことを知った。
ではさっそく、「缶詰記念館」へ突入!!
中に入ると、外観と同じく結構な歴史を感じる展示が並ぶ。
上を見ると年表もあった。ちょっと見てみよう。
缶詰の歴史を見るに、日本の缶詰製造は1871年の長崎が初だったようだ。
その後、西南戦争で缶詰が初めて利用されたり、北海道にサケ・マス缶詰の工場が出来たりしたらしい。
清水のビンナガマグロ缶詰は1929年なので、なかなか年代に差がある。
1913年にはアメリカから自動製缶機と自動巻締機が導入され、1921年には蟹工船が登場。
1925年にはマグロやミカンより先にアスパラガス缶詰が北海道で誕生し、1929年に清水食品のマグロ缶詰が作られた。
缶ビールの登場が1958年と遅いのがなんだか意外だったが、思えば当時は瓶ビールが基本か。
戦争もあったし、素材を消費して使い捨てする缶よりも、洗って使い回せる瓶が良いというのは当然かもしれない。
そして1970年と1971年になにやら連続で問題が起きている。(後述)
年表はまだあったようで、こちらは静岡県の缶詰史の年表だ。
さっきと違って西暦を書いてくれていないのが最高に勘弁してほしいが、こちらも見ていこう。
年表によると、どうも静岡では明治10年(1877年)には下田でアワビの缶詰を既に作っていたらしい。
静岡全体で見れば缶詰工場はそこそこあったようで、1904年には日露戦争の軍納缶詰のために、下田・沼津・焼津・相楽などの業者が活躍したとのこと。
自分は清水が先陣を切ったのだとばかり思っていたが、やっぱりこういう全体の流れを把握するのって大事だなと。
ちなみに、過去の日清戦争でも国内製造の缶詰が軍隊に支給されてはいたのだが、品質が劣悪で不良品が続出していた。
なので軍は日露戦争においては、「民間に任せず自分たち(軍の工場)で作った方がいいな…」とか考えていたのだが、流石に量が足りないということで、民間の缶詰工場に軍人が技術指導&監督役として入り、結果として民間の工場の技術が向上したとかなんとか。
そして1929年にはビンナガマグロ缶詰が清水で登場し、アメリカへの輸出が始まるわけだ。(思えば今までは国内需要を満たす用だったのか)
この翌年に清水では後藤缶詰所が創業し、マグロの缶詰を主製品にするのだが、これはなんと現在のはごろもフーズである。
そして先程の年表にあった1970年の「缶詰に水銀問題」と1971年の「デコンポーズ問題(肉質異常での返品)」など、アメリカとの輸出で起きる諸問題がどうにも厄介だということで、段々と輸出ではなく内販を重視する流れが業界に起きていった。
その中で内販重視だったのが後藤製缶所(現・はごろもフーズ)であり、79年には内販比率はほぼ100%となり、シーチキンの名で日本のマグロ缶詰市場を席巻したのだった。
……いやはや、今まで缶詰業界に1ミリも興味を抱いてこなかった人生だったが、歴史を学んでみれば思いのほか面白い缶詰業界。
そして展示を見ていると、こんなものがあった。
今までは「PACKED IN JAPAN」みたいに書かれていた缶詰だが、これは「PRODUCT OF OCCUPIED JAPAN」と書かれている。
ここでいう「OCCUPIED」は「占領下」という意味だ。
日本は敗戦後7年間は連合国の占領下にあった。
そして貿易が再開したのは戦後2年経ってからなので、残りの5年間にのみ表示されていたのが、「OCCUPIED JAPAN」という表記なのだ。
世間には、この限定された期間にしかない「OCCUPIED JAPAN」表記の商品(焼き物やおもちゃ)を集めるコレクターがいるとかいないとか。
……うーむ、こういうメイドインジャパンが奪われた時期もあったんだな。
そんなわけで、めちゃくちゃ勉強になった缶詰記念館。
やはりなんでも寄ってみるものだなって。
そしてこの記事を書いている今、清水食品が戦時下のインスリン製造に凄まじい功績を残した清水製薬に関係していたり、鈴与財閥や清水次郎長など、他にもあらゆる物事がつながって頭がオーバーヒートしそうになっている。
……清水の歴史は深い。
そんなわけで大満足のフェルケール博物館をあとにし、自分は自転車をこぎはじめた。
目的地は三保の松原である。
いやほら、メジャー所もちゃんと行っとかないとね!
今日は天気もいいし、サイクリングとしてもかなり良い感じに楽しめそうだ。
三保の松原、一体どんな景色が待っているのだろうか。
次回へ続く……!
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