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【後編】 『夜行富士登山・大峯登山冒険修行 (明治少年叢書)』〜弾丸登山の果てに〜【国立国会図書館デジタルコレクション】

前半では陸軍士官学校を出発し、御殿場から1合目まで上った過程を書いた。

服はびしょ濡れ、装備は皆無、睡眠不足に栄養不足

完全に富士登山でのNG行動をしまくりな一行は、今後どうなってしまうのか……!!


6合目に到着。

葛湯がうまい。

おにぎりの残りの一個を食べた。2個買っといてよかった^^

1合目から6合目までの過程を一気にスルーされた。

いや、仕方がない。
実はこの本、夜行富士登山編は46ページしかないのである。

そして前回予告されたおにぎりイベントがここで回収されるのだが、書いてあるのは以前と同じく、「2個にしといて助かったよ」ということのみ。
追加情報はゼロである。(なんでわざわざ二回も書いたの……?)

作者の意図は不明だが、おにぎりを食べて元気が出た一行。

6合目からこの先はどうするのか?


もうすっかり日は暮れたが、それでも8合目を目指すぜ!!
道は真っ暗で手探りの状況
ヘッドライトなんてものは当然ない!

するとそこに月が顔を出した。
照らされる景色。
綿のような雲。
雲からちょっとだけ顔を出す山々。
山脈の中に雲が溜まっているの見ていたら、なんだかスープみたいに見えてきた。
山は鍋で、雲がスープだ。

きっと下に住んでいる連中は俺たちがこんなところにいることも知らない。
へへ……なんだか面白いな。
こういうのを崇高(サブライム)というんだろう。

だが再び月は雲に隠れてしまう。
また真っ暗になってしまった登山道。

しまった。
月明かりで道を探るのを忘れていた。

8合目を目指し、日没後の富士山を手探りで登山し始める一行。

冒険心というか闘争心が凄まじいのはよくわかったが、ライトもなしの夜間登山は死の香りしかしない。

しかし月明かりに照らされる風景の描写はなかなか素晴らしい。
俺たちは今すごいところに来ている」というワクワク感も、なんだか登山経験者としては同意できるものがある。

そしていきなり「サブライム」なんて英語を使い始めたがどうした?
テンションがあがったのだろうか。

しかし、月明かりはなくなり、また道はわからない状態に。

どうなる一行。


しょうがないので一行は3方向に分かれて8合目の宿を探すことに。
「ないぞー!!」「こっちもないぞー!!!」「ないなー!!!」

そんな3人がうるさかったのか、8合目の主人が気付いて火を焚いて位置を教えてくれたのだった。

3人はそれを頼りにどうにか8合目の宿に到着。
(8合目には宿が3軒あるらしい)

「こんな時間に来る客いないよ」と言いつつ主人がご飯を出すと、
握り飯を食ったのでいらん!!」と突き返す一行なのだった。

暗闇の中で3方向に別れて道を探す一行。
冒険心が溢れすぎて現代で同じことをしたら翌日のニュースになりそうだ。

しかしどうにか8合目にたどり着いた。
さすがは士官候補生。体力がすごい。

でも飯を拒否する。
まさかのおにぎり食ったから大丈夫宣言。

もしかして自分の想像してたのとは違う超巨大おにぎりだったのだろうか。


宿に泊まり、次の日の朝5時。
「ヨイショ、ヨイショ」と下から人が上がってくる。
あれはきっと昨日6合目に泊まっていた連中だろう。

その後、朝飯はさすがに食べることにした一行。
しかし飯が気圧でうまく煮えないのか、半透明でご飯が美味しくない。
味噌汁付きだが、まさかの60銭。(6000〜12000円)

や、安いもんだ。(強がり)

その後登山を開始するが、岩の上を這っていくようでもう大変。
すると行者たちが「ご来光じゃ」と騒ぎ始める。

振り返って暫く見ていると、見事なご来光が見えたのだった。

8合目の宿で朝を迎えた一行。

そして山価格の食事に財布が大ダメージ。

そして山頂からではないものの、しっかりご来光を見た一行。
なんだかんだで富士登山の重要イベントはこなしているようだ。


ほどなくして山頂に到着。

富士山の頂上には井戸があり、金明水・銀明水と呼ばれる水がある

近くには梧竹という人の碑もあった。
70歳くらいの老人が、この石碑を自分で登って建てたそうだ。すごいなあ。

そんなこんなで剣ヶ峰に登り、一番高いところの石を盆栽好きな知り合いのお土産としてゲット。

近くには野中さんの観候所もあるが、戸や壁の至る所に酷く落書きがしてある。日本人のこういう癖はどうにかならないものか。

なんと富士山の頂上には井戸があったらしい。

そう、考えてみれば富士山は夏でも雪が残っているような場所なのだ。
雪解け水があるじゃないか!

だからこそ昔から山小屋を作ることも出来たのだろう。
考えてみれば雨水も結構利用できそうだ。


そして梧竹という人の石碑に関しては、少し情報が間違っているかもしれない。

確かに書家の中林梧竹の碑は存在するが、さすがに本人が背負って登ったのは無理があるだろう。

ちなみにこの石碑は1898年に建立したそうなので、一行が登ったときはまだ新しかったと思われる。

そしてこの碑はのちに落雷にあって倒れてしまうのだが、それを再生させたのがまさかのカルピス創業者である、三島海雲

三島海雲は晩年まで富士登山をしていた体力凄い系経営者であり、富士山を愛していた。倒れていた碑だって当然修復しちゃうのである。

更には本社の敷地内にそのレプリカを飾るという謎ムーブも見せるが、それはまた別のお話。


・【「鎮國之山」の碑を巡る書縁・人縁】

https://iikou-d.jp/affiliate/tokyo/files/2011/10/tosui08_p22-23.pdf


文中の「野中さんの測候所」というのは、野中到(のなかいたる)のことだろうと思われる。

当時は高地での観測は信州が最高地点であり、高山での観測は年に数回程度だった。

野中は自腹を切って富士山での年中観測を目指した人なのだ。

詳しく説明するとあれなのでWikipediaを読んでもらうとして、
そんな測候所に落書きをしていくとは……。

まあ1900年頃だし、今の日本人の常識は通じないのだろう。


「おい!氷があるぞ!!」
一行はで氷を砕きつつ、パクパク。

「ちょっとあそこの雪も取ってくるわ!」
上の方は汚いから、そこはどけて下の方を食べるんだぜ!
パクパク。

ちなみに山頂の景色は雲ばっかで何も見えませんでした

まさかの武器はしっかり携帯していた一行。
そりゃ剣なんてもってたら子供も寄らんだろう。(前回参照)

そして「汚れた上の雪をどけて食べる」とかいう子供の頃を思い出すやり取りを、1902年刊行の本で見ることになるとは。
いつの時代も考えることは同じらしい。


だが山頂の景色はよろしくなかったとのこと。

あんなに苦労したのにここで快晴にならないところが、やはり実話なんじゃないかという雰囲気を感じる。


帰りは御殿場の方にしたが、砂地になっていてめちゃくちゃ楽しい
1歩のつもりが3歩4歩進める。最高。

わらじがそこら中に捨てられているので、それを拾って履きまくるとかなり良い感じだ。

もう傾斜がなくなったかなと思って周囲を見ると別にそんなことはなく、登りと違って下りのときは傾斜なんてよくわからなくなるらしい。
不思議だ。

帰りは御殿場ルートにしたらしい。

そして砂走の楽しさを紹介している。
落ちてるわらじを追加装備しまくるというテクニックも書いていて、現代ではなんの参考にもならないが、当時の富士山の状況が補完できて良い。

思えばこの一行も出立時にわらじを三足持っていた。

そう、わらじは消耗品なのだ。
山道にもそりゃもういっぱい落ちていたことだろう。

こういう描写で当時に思いを馳せるのは良いものだ。

そして舞台はいよいよラストへ……!!


裾野の茶店には何もなかったので、どんどん降りて中畝(なかはた)という場所へたどり着いた。
そこでは70歳くらいの爺さんが菓子を提供していた。

菓子を食べて休憩する一行。
その爺さんは自分の孫が去年豊橋の隊に行ったらしく、士官候補生の自分たちを見て喜んでいるようだ。

「孫に小遣いをやりたくてね。今年からこの店をやってるんですよ」

「なるほどな。ところで菓子代はいくらだ?」
「10銭です」と返す主人。

一行、まさかの10銭がない。

「すまんけど……1円(100銭)でお釣りくれる?」
「いやさすがにそんなお釣りはないですぜ旦那……」

お釣り不足である。
やむを得ない。みんなで細かいお金がないかしっかり探す。
するとどうにか8銭集まった。

「8銭しかないんだけど、どうしたらいい?」
「ああ、もうそれでいいでござんすよ……」

店主は8銭でもいいと言ってくれたが、なんだか気の毒だ。
自分は余っていたわらじを渡したのだった。


それから御殿場についたのだが、詳しくはそのうち日記に書くわ。

〜おわり〜

最後のエピソードがまさかの「お釣り足りない話」!!

絶対ラストに書くような内容じゃないだろと思ってしまうが、これがこの作品の味ということなのだろう。

しかも不足金額をわらじで補う。
なんだかこの本はかなりの頻度でわらじが出てくる気がしてならない。

こんなにわらじなんて文字をタイピングするとは思わなかった。


しかし「孫に小遣いやりたいんです」というエピソードを挟んだ後に、「お金ないわ」というストーリーを挟んでくるのが流石である。

ラストなのに気分良く終わらせる気がまるでない。


彼らには「ああもう、この1円をやる!!」というような豪快さは存在しない。しかしそれ故にリアルとも言える。

自分も1円(1〜2万円)はさすがに渡さないだろう。


しかしこう……なんだか不思議な物語だったな。



そんなわけで1902年刊行、『夜行富士登山』をご紹介した。

士官候補生たちの弾丸登山は結果として成功したようである。
いやこの行動は褒められないものだけども。


しかし1900年当時でも山小屋はいっぱいあり、食料や水分補給も可能だったことがよくわかった。

剛力(歩荷)による荷物の輸送は行われていただろうし、登山者が剛力を雇っている描写もあったのを見ると、当時はポーターのような存在を一般登山者が使うのはよくあることだったのかもしれない。


しかし人間はたくましい。
今よりずっと不便な時代においても、過酷な環境で商売していたのだ。

なんだかこの本を読んだことで、富士登山への想いは更に大きくなった気がする。

……行かねば。


なお、8月の富士山の天気は最悪である

富士山の天気

やっぱり夏の富士登山は天気に恵まれないのだ。
かといって秋冬になってしまっては山頂の気温が大変なことになる。

とりあえず8月後半の登山を目指し、体調を整えようと思う。


皆さんは彼らのように弾丸登山なんてせず、安全な登山計画を立てていただきたい。

いや、思えば彼らも8合目で泊まってるから弾丸登山でもないのか……?


まあとにかく、富士登山は舐めないように!!


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aosagi
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