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「スーツ=軍服⁉」改訂版 第44回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載44回 辻元よしふみ、辻元玲子
 
 
三、コートと防寒衣料の章

コートが必要になった寒い時代

オーバーコートにもいろいろな種類がある。地球温暖化でコートなど無用、などと早まった議論をしていると、突然、春先に真冬のような寒さがやってくる。地球環境は一本調子に変化するわけではなく、異常気象が続くのなら、異常な温暖も異常な寒冷も、突然やってくるものである。
十九世紀初めまで、乗馬服や軍服のジャケットの上に、さらにオーバーコートを重ねるというのは、実はあまり一般的ではなかった。十六世紀後半ごろからは、特にドイツ風の防寒コートは「ブランデンブルク」と称されて、一部の兵士とか、一般の人たちも広く使用していたというが、それにしても専用の防寒コートという発想は、まだなじみが薄かった。
大々的に防寒コートを軍服の上に羽織ったのは、一八一二年、冬のロシアに侵攻したナポレオン軍であろう。当時の歴史画にも、ナポレオン・ジャケットの上に、地味な灰色のダブルのコートを重ねて着る皇帝の姿が描かれる。だがこの当時も、コートは夜間の歩哨など特別な任務に就く者にだけ用意され、制式品としては支給されなかった。
そういうことだったので、しばしば兵士たちは、自分で調達した私物を用いていたという。ちょうどナポレオンが最後の戦いをワーテルローで行った一八一五年には、インドネシアのタンボラ火山が史上最大級の爆発を起こした。このため、世界的に寒冷化が進んで、翌一八一六年は「夏のない年」として記録に残ることになる。この年と翌年は世界的に気温が低下し、六月、七月になっても積雪や凍結をするところもあったそうだ。このように、十九世紀の初めは非常に寒い時期だった。
ダンディズム華やかなりし時代の十九世紀の英国では、マントやらコートやらが、燕尾服やフロックコートの上に羽織るしゃれたアウターとして一般化する。
科学者によれば、タンボラ山の噴火以前から、一般的に十七~十九世紀には冬の温度は現在よりずっと寒かった。今よりも太陽の活動が低調で、日本の江戸時代に飢饉が続いたのも、火山活動が今より活発で、一方、太陽の活動が弱かったからだという。逆に、今日の温暖化傾向も、人類の産業活動の問題だけでなく、太陽活動が活発なのだともいう。ともあれ、十九世紀にオーバーコートが必要になったのには、科学的理由もあったわけである。

チェスター・コートに名を残した伯爵

今日、最もフォーマルなコートといえばチェスターフィールド・コートである。その名は、英国の第六代チェスターフィールド伯爵ジョージ・スタンホープ(一八〇五~六六)に由来する。英国史上、四代目チェスターフィールド伯が政治家としてはるかに著名なのだが、洒落者だった六代目は、競馬の熱狂的なファンであり、競馬場で羽織るためのコートを作らせたのだという。それは当時、一般的に紳士に着られていた「オーバー・フロックコート」よりもシンプルな作りだった。オーバー・フロックコートはフロックコートの拡大版と言えるもので、フロックコートと同じく腰の切り返し部分、上体とスカート部の接合部に縫い目があった。
一方、チェスターフィールド・コートは上から裾まで一続きの仕立てで、また基本形は隠しボタンのシングルで、比翼仕立てであり、当時としてはスポーティーなフィールド・コートという扱いだったのである。襟にはサテン地の別布を張り、これはもともと、アウトドア用の服であるがゆえ、襟に付着しやすいゴミ、つまりフケやほこり、葉巻の灰を払い落としやすくするための工夫、という説があるが定かでない。
その元祖チェスターフィールド・コートは一八五二年に作られ、クロンビー社(一八〇五年創業)のメルトン生地を使用しており、裏地は伯爵がオーナーである競走馬や騎手の識別色だった赤色を使っていたという。これ以後、クロンビー・コートは元祖チェスターフィールド・コートの代名詞となり、英国陸軍用のコートも納入して「ブリティッシュ・ウォーム(英国のぬくもり)」の異名をとった。歴代の国王や王族、チャーチル首相、アイゼンハワーやケネディなどの米大統領もクロンビー社の顧客リストに名を連ねているという。

水兵用のピーコート

紺色のピーコート、あるいはリーファー・ジャケットは海軍水兵用のダブルのコートで、今でも、民間用のピーコートのボタンであっても、錨のマークが刻まれている。HMSブレザー号の話で出てきたように、後に海軍ブレザーとして成立した上着の原型もピーコートではないかと言われる。ピーというのは、ゲルマン古語と古英語をつなぐと言われる北オランダ島嶼部の言語、フリジアン語で「粗い生地」を指す。ピーコートは前合わせが左右同型で、ボタンも同数あり、左前にも右前にも出来るが、これはダブルのジャケットというものが本来、防風の工夫から、そういう仕様であったのだから驚くに当たらない。


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