見出し画像

「スーツ=軍服!?」改訂版 第33回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載33回 辻元よしふみ、辻元玲子

「マイアミヴァイス」のようなダルトン時代

四代目ティモシー・ダルトンの時代には特定の有名テーラーがスーツを提供していたという話は聞かないのだが、事実ははっきしりしない。古いファンからは「カジュアル・フライデイのボンド」などと陰口を叩かれた時代である。このころのシリーズの衣装担当はジョディ・ティレン。ゴージャスな衣装や小物で有名なアメリカの人気テレビシリーズ「特捜刑事マイアミヴァイス」で名を上げた人物なのだから当然かもしれない。ジェイミー・フォックスとコリン・ファレルが主演した劇場版「マイアミ・バイス」(二〇〇六年)でも、外回りの刑事の持ち物としては不相応と思われる一千万円以上もするヴァシュロン・コンスタンタン(一七五五年創業の時計業界でも最高峰のブランドの一つ)の腕時計など惜しげもなく披露していたのだから雰囲気はわかる。
実は、ダルトン自身はあまりに派手な色彩の衣装に辟易していたという話も伝わる。当時の雑誌のインタビューによると、彼は、ボンドというのは本来、海軍軍人であり、金持ちではなく、いいものを大事に長く使う英国人気質の持ち主だと思っており、用意される衣装に違和感を覚えていたという。

ブリオーニが採用された背景

そして、五代目のピアース・ブロスナンが登場した。前の時代に決まったブランドがなかったために、「007御用達ブランド」となるチャンスが生まれたのだが、これに成功したのがブリオーニ・ローマンスタイル社だった。
ボンド映画も初期のしぶい作りから、特撮、アクション、派手な格闘満載の映画に変貌していた。とても初期のころのようにスーツ三着というわけにはいかない。ブリオーニが成功した理由というのも、エンドクレジットに「衣装提供:ブリオーニ」と入れてもらうために五十着ものスーツを提供したのが最大の理由だったという。サヴィル・ロウのビスポーク・テーラーには出来なかったことだ。本来は二、三か月から半年もかかる個人手縫いが基本の完全ビスポークでは、とても数をそろえられない。ブリオーニは素晴らしい手縫い多用のスーツとはいえ、製造ラインのある既製服であるから、完全注文服より量産性は高い。
英国人ジャーナリストの当時の文章に「ブリオーニなど素晴らしいと言っても八割は十八時間から三十時間でできあがる工場製品だ。あとの二割は採寸すると言ってもせいぜい袖丈や裾の調整だろう。サヴィル・ロウのスーツは、がに股だろうが背中が曲がっていようが、どちらの内ポケットに財布や拳銃を入れるかまで計算し尽くした完璧なビスポークだ。もともと異質なものだ」と苦言を呈しているものを見かけた。よほど007の衣装をイタリアン・ブランドに奪われたことが面白くなかったのだろう。とはいうものの、アクション満載の今時の007映画を撮るには、実際、五十着とか六十着とかの高級スーツが必要なのも事実で、それが出来たのがブリオーニの「機動力」だったわけだ。もちろんトム・フォードも同じような条件をクリアしているはずである。
よく、007映画について「五十万円以上の高級スーツや、七十万円のタキシード、百万円のロレックスやオメガの時計、アストン・マーチンそのほかその時代の超高級車……。一体、英国の諜報部員というのは月収何百万円もあるのか、それとも経費使い放題なのかしら」と皮肉を言う向きがあるが、実はあれでも、以前よりずっと「実用」を考えた変化を遂げている。単価が高いスーツといえども、個人で買うと思えば高いわけだが、映画の予算の一部としては意外に高がしれている。五十万円×五十着分の全額を正価で払ったとしても日本円で二千五百万円。これに対して、ダニエル・クレイグの「スカイフォール」の製作費は約二億ドル、つまりざっと言って二百億円以上なのだから、ケタが違う。ほとんど誤差の範囲である。それよりなにより、大量に似たような服が用意できる、という既製服のノウハウが今の007には必要、という次第である。
ちなみにボンドのシャツは歴代英国の老舗ターンブル&アッサー、靴はこれも英国の名門チャーチが担当してきた。が、ダニエル・クレイグから、靴はやはり英国発祥の最高級靴ブランドであるジョン・ロブに代わったそうである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?