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[ためし読み]『二度の自画像』「訳者解説」から②

アジア文学の新たな息吹を伝えるシリーズ〈物語の島 アジア〉からお届けする第五弾は、韓国文学において確かな存在感を示す作家、全成太(チョン・ソンテ)による短編集『二度の自画像』。時の流れのなかで懸命に人生と向きあう人々をとおして、韓国の現在と過去の記憶を、丁寧なまなざしで映し出します。

本書の訳者、吉良佳奈江が記した「訳者解説」から、本書に収められた12編の解説部分を公開します。ぜひご一読ください。

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【目次】
日本の読者へ

遠足
見送り
釣りをする少女
えさ茶碗
おもてなし
『労働新聞』
墓参
望郷の家
白菊を抱いて
消された風景
桜の木の上で
物語をお返しします

訳者解説
 作家来歴
 主要作品
 境界と記憶を描く ―『二度の自画像』 ←一部公開

◇   ◇   ◇

境界と記憶を描く ―『二度の自画像』

 本書『二度の自画像』に収録された短編の初出は次の通りである。

  「遠足」『創作と批評』二〇一四年夏号
  「見送り」『現代文学』二〇一二年五月号
  「釣りをする少女」『現代文学』二〇一一年八月号
  「えさ茶碗」『緑色評論』二〇〇九年一一〜一二月号
  「おもてなし」『本質と現象』二〇一〇年春号
  「『労働新聞』」『創作と批評』二〇〇九年夏号
  「墓参」『現代文学』二〇一三年八月号
  「望郷の家」『黄海文学』二〇一〇年春号
  「白菊を抱いて」『世界の文学』二〇一〇年春号
  「消された風景」『よい小説』二〇〇九年夏号
  「桜の木の上で」『作家世界』二〇一〇年秋号
  「物語をお返しします」『文学思想』二〇〇九年九月号

 様々な時代と場所を背景とした十二編だが、中でも境界と記憶という二つのテーマを小説集の柱としてあげることができる。

 境界をテーマとする作品としては「見送り」「釣りをする少女」「えさ茶碗」「労働新聞」「墓参」「望郷の家」がある。この六作品の登場人物たちは、境界を越え、あるいは境界線の上にあって、作家の言葉を借りれば韓国という〈ひとつの社会から取りこぼされてしまった存在〉と言えるだろう。

 まず「見送り」は、韓国で働き帰国する外国人労働者の姿をかつての雇用主の目を通して描いている。韓国と外国という境界線と、外国人労働者と韓国人の雇用主が共有する記憶が反映された作品である。韓国では二〇〇〇年以降、外国から流入した移住民を主題とした「多文化小説」と呼ばれる作品が多く発表された。「見送り」に登場する外国人労働者ソヤの不十分な韓国語や、健康を損なう描写は「多文化小説」に共通する特徴だ。そこには韓国人が支配者であり移住者が被支配者であるという構図が前提とされており、これらの作品では移住者に対する申し訳なさを表明していることが多い。「見送り」においてもソヤから帰国の知らせを聞いて飛行場に駆けつけた理由を、雇用主であった美淑(ミスク)は「自分がどうして空港まで来たのか(……)ソヤに対して申し訳ない気持ちがあったのだろう」と自ら分析し、「忙しい厨房で八つ当たりもしただろうし、店をたたむ前の何か月かは給料日にちゃんと給料を渡せなかった」と回想している。

 ソヤは雇用主=支配者である美淑のことを「しゃちょうさん」と呼んでいるが、ふとしたはずみに、「おねえさん(オンニ)」という言葉が出てしまう。韓国では血縁関係がなくても親しくなった人間を親族間の呼称で呼ぶことがあるが、「姉(オンニ)・妹(ドンセン)」と呼びあう女性二人の関係は時に親しく、共犯的でもある。帰国の荷物を整理する過程で、美淑は二人の思い出が詰まった品々を見つける。捨てていくように言われたソヤは「ぜんぶすてたら、わたしのかんこくせいかつ、なにもない」と反発する。労働者として韓国に入国し、不法労働者となってからも働き続けた韓国の生活は決して苦しいだけのものではない。捨てて帰れない荷物の一つひとつにソヤが韓国で過ごした時間と記憶が詰まっている。「見送り」は、帰国当日の数時間を描きながらもソヤの十年に及ぶ韓国生活を想像させる作品になっているのだ。

 ソヤの中で「しゃちょうさん」と「オンニ」の境界線は曖昧で揺れている。美淑にとっても同様だ。実際に移住労働者と韓国人との関係も、支配者と被支配者という単純な二項対立で理解することはできないはずだ。全はソヤに美淑「オンニ」と呼ばせることで韓国社会と移住者との重層的な関係の一片を描き出している。それは同時にソヤが韓国で過ごした十年間に人間らしい意味を持たせるものでもある。

 社会や家族、ジェンダーのあるべき規範を重んじる韓国では、シングルマザーや、セックスワーカーに対する偏見も強く残る。彼女たちは、同じ社会で暮らしながらも陰に隠れた存在である。セックスワーカーとして働くシングルマザーとその娘を描いた「釣りをする少女」は、映画『牛の鈴音』(日本公開、二〇〇九)のイ・チョンニョル監督の次回作『蝉の声』の一部として構想された。そのせいか、ト書きのような短文の繰り返しが印象的である。時空を行き来する映画のように、作品は明るい昼の光と夜の闇、時間と場所、平穏と絶望が交差している。

 また、「えさ茶碗」には、ベトナムから結婚移住してきた女性が登場する。ベトナム出身の嫁と年老いた姑は言葉が通じないながらも釣りでコミュニケーションをとっている。嫁が犬を蹴飛ばしながら言う「とってくっちまうぞ」という言葉は姑の口癖であり、姑が料理するフナの蒸し物は嫁に教えてもらったものだろう。この二人は自然と家族になっているようだ。

 物語の最後の部分は日本の古典落語の「猫の皿」と共通するものだが、原著の作家後書きでは「ロアルド・ダールの物語を私たちの国で巷にある笑い話に置きかえた」としている。

 次に「『労働新聞』」は北朝鮮からの離脱民が住む団地が舞台である。管理人の老人たちは古新聞の中から北朝鮮で発行されている『労働新聞』を発見して、団地の中にスパイがいるのではないかと疑心暗鬼になる。韓国社会の北朝鮮への態度は、時の政権によって変わる。しかし、長く続いた反共産主義の考え方は、北に対する恐怖として根強く残っており、すぐに感情を切り替えられないことも事実である。

 韓国に来て定着支援施設から団地に移ったばかりの青年は、国旗掲揚の仕方も太極旗の意味も分かっていない。彼が太極旗で古着を包む話は笑い話のようでもあり、『労働新聞』をめぐる謎解きのヒントにもなっている点が興味深い。

 「墓参」もまた、南北対立がテーマだ。舞台は敵軍墓地で、そこに眠るのも管理するのも軍人たちだ。この作品では軍隊を通したホモソーシャルな連帯感が描かれるが、その連帯感は女性の生き方を犠牲にしたうえで成立している。職業軍人の夫に合わせて引っ越しを繰り返した人生を嘆く妻を目の前にして、主人公の老人は「嗚咽する妻を見守りながら、自分の、残り少ない人生の階段をコトリと踏んで一段下りた気分」になる。自分たちが誰かを傷つけていないかという自問は、全の作品に繰り返し現れる。そして、この点は現代韓国文学の一つの傾向と言ってよいだろう。

 最後に「望郷の家」は南北分断以前から現代へ、北から南へと境界線をまたいで記憶をつなぐ作品である。この作品では老人たちが北で過ごした少年時代、「どうにもならん世の中だった」という反共主義の軍事政権と、現代の記憶が重ねられている。そこから現在の韓国が、いくつもの記憶=歴史の積み重ねの上にあることがわかる。

 前記六作とともに、「遠足」「おもてなし」「白菊を抱いて」「消された風景」「桜の木の上で」「物語をお返しします」は、記憶をより深いテーマにしている。

 『82年生まれ、キム・ジヨン』( チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳、筑摩書房、二〇一八)などのヒットにより、日本において韓国文学はフェミニズムと関連付けて語られることが多い。韓国の文学が現実を批判する力を持ち、特に女性にとっての不平等を言語化しつづけていることが大きな要因だ。その背景には、韓国社会で男尊女卑の状況が長く続いたことがある。キム・ジヨンの生まれた八〇年代でも、胎児が女児とわかると堕胎されるケースは少なくなく、九〇年代を舞台にした映画『はちどり』でも、兄たちは当然のように妹に暴力をふるっている。日本と韓国では女性差別の現れ方は違うが、少なくとも全の少年時代の韓国ではよりあからさまに、女性は不自由であり搾取されていたと言えるだろう。その当時を描いた作品が「おもてなし」「桜の木の上で」である。

 「おもてなし」は一九八〇年代の地方都市が舞台である。主人公のヤン係長は大統領閣下の地方巡視儀典の遂行のためにインスタントコーヒーの味にこだわり、部下の女性たちにしずしずとコーヒーを運ぶ訓練をさせ、カップが音を立てるからといって怒鳴りつける。その実、「彼は作戦期間中、パク・ソンイが自分を一号として扱うことを望んでいた」、つまり小権力者が、仕事の遂行にかこつけて自身の欲望を遂げようとしているわけだ。

 最後にパク・ソンイは成長を遂げる。儀典の成功には一歩近づくが、自分の仕事をやりとげようとするパク・ソンイにとってヤン係長はもはや、かしずく対象ではなく、係長の欲望が達成されることはない。

 「桜の木の上で」は、主人公が田舎で暮らした少年時代を回顧する一人称の小説である。木の上から眺める風景描写はすがすがしく、村人総出で行われる貯水池での漁の様子は太鼓の音、泥の触感や冷たさ、村人たちの明るい高揚感を生き生きと伝えている。その一方で、隣のおばさんが逃げ出すほどの暴力や、家を飛び出しても逃げ切れない地方都市の閉塞感、激しい言葉の行きかう大人たちの喧嘩など荒々しい面と、大人になることを拒否する繊細な少年少女の心が描かれている。

 原題は直訳すると、「少女は成長し、兄さん(オッパ)たちは楽しい」となり、成長を拒否する少女と憂鬱な少年の記憶を逆説的に表すものだ。日本語にするとリズムがそろわないため、作者と相談のうえで作者が敬愛する大江健三郎の『「自分の木」の下で』(朝日新聞社、二〇〇一)にリズムを合わせ日本語タイトルとした。

 次に「白菊を抱いて」「消された風景」は、韓国の軍事政権の暴力として、最近ようやく日本でも知られてきた一九八〇年の光州事件を扱っている。

 「白菊を抱いて」は光州事件から七年後の全羅道の海辺の村が舞台だ。学生時代に光州事件を体験した女性教師、娘を若くして失くした老医師、光州事件で息子を亡くした母親、家庭を捨てて寺の庵で暮らす母子、俗世を離れて仏門に入り、今度は実家の母親まで亡くした尼僧。祖母と二人で暮らす女性教師の教え子も、「死んだ人は絶対帰ってきません」という断固とした態度を見れば、大切な誰かを亡くしているのだろう。女性教師がひそかに思慕する男性の墓への最後の墓参りに、様々な哀悼と共感が重ねて描かれる。

 「消された風景」は、光州事件から約三十年が経過した現代の光州が舞台である。新しくなった自宅に、老人は息子を迎える。中年になった息子の意識は少年のまま年を取らず、妄想の中に生きている。老人は息子の妄想に自ら巻き込まれて、あの晩を再現しながら息子のトラウマに向き合う。

 これらの作品で全が描き出したのは光州事件から歳月がたっても癒えない心の傷であり、それは韓国の現代史の傷でもあると同時に、民主化された韓国の出発点でもある。

 最後に、「遠足」「物語をお返しします」の二作では家族の記憶が描かれる。

 「遠足」は、とある祝日の、親子三世代の遠足の風景だ。しかし、幸せに見える家族はその幸せを壊さないように、互いに打ち明けられない思いを隠し持っている。忙しい生活の中で父親を見送った夫のセホは心身ともに疲弊し、親の死に無感覚だった自分に罪悪感を持っている。妻のジヒョンもまた、しっかりしているようで、時に危うく見える。ジヒョンの母親の異変に家族が気づき、幸せのバランスが崩れそうな瞬間にセホは義母に語りかける。「大丈夫ですよ、お義母さん。問題ありませんよ」と。

 「物語をお返しします」は冒頭で述べられている通り、母のために書いた個人的な物語であり、小説というよりエッセイに近い。「私についての記憶のない母を、これ以上、母と呼べるだろうか」と自問しながら、認知症の母が失くしていく記憶を補うように、自分が聞かされた物語を母親に返す話である。これはちょうど大江健三郎の「なぜ子供は学校に行かねばならないのか」(『「自分の木」の下で』)を裏返しにした構図になっている。十歳の大江が高熱と死の恐怖で苦しんでいると、母親は自分がもう一度生んで、それまでの話をしてあげると言って慰める。安心した大江少年は快癒するという話だ。著者に尋ねたところ、意図したものではないが『「自分の木」の下で』は好きな作品の一つだそうだ。全と大江の作品では親子関係が逆転しているが、記憶がその人を形作っているという発想は共通している。

【著者紹介】
チョン・ソンテ

1969年、韓国全羅南道高興郡に生まれる。中央大学芸術学部文芸創作科在学中に、都市と地方の間に横たわる問題について方言を効果的に用いて描いた「鶏追い」(『実践文学』1994年秋号)で実践文学新人賞を受賞し文壇デビュー。以降、着実な創作活動を続け、2008年より中央大学で後進の指導にあたる。2021年より国立順天大学文芸創作科教授。本著は作家の四作目の短篇集にあたり、収録作「釣りをする少女」で現代文学賞(2011年度)、短編集として李孝石文学賞、韓国日報文学賞(ともに2015年度)を受賞した。
【訳者紹介】
吉良佳奈江

東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程在籍中。法政大学講師。専門は韓国近現代文学。主な翻訳にチャン・ガンミョン『韓国が嫌いで』(ころから、2020年1月)、チョン・ミョングァン「退社」『たべるのがおそい』7号(2019年7月)など。
【書誌情報】
物語の島 アジア『二度の自画像』
[著]チョン・ソンテ [訳]吉良佳奈江
[判・頁]四六変型判・並製・420頁
[本体]2800円+税
[ISBN]978-4-904575-88-8 C0097
[出版年月]2021年5月12日発売
[出版社]東京外国語大学出版会

※肩書・名称は本書の刊行当時のものです。

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