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二度どころじゃない、何度もだ。

女は二度決断する

ドイツ、ハンブルグ。トルコ移民のヌーリと結婚したカティヤは幸せな家庭を築いていたが、ある日、白昼に起こった爆発事件に巻き込まれ、ヌーリと息子のロッコが犠牲になってしまう。警察は当初、トルコ人同士の抗争を疑っていたが、やがて人種差別主義者のドイツ人によるテロであることが判明。愛する家族を奪われたカティヤは、憎しみと絶望を抱えてさまようが……。(映画.comより転記)

ファティ・アキンが監督であることと、ダイアン・クルーガーが主役であること以外一切何の情報も入れずに見たこの映画。

正義って何なんだろうなと思う。法廷のシーンを見ているだけで胸が詰まる。妻であり母であったカティヤは二度どころか何度も決断を迫られた。何度も。だから私はこの邦題があんまり好きじゃない。

それに「女は」って言うけどさ、じゃあ男ならどうするのさ。妻が、息子が、悪意に満ちたテロで殺されたら、男なら何も考えずに、ターミネーターばりに即復讐か?

邦題に突っかかりすぎか。でも原題と違いすぎて。カティヤの心象の意を込めたとしても「決断」というよりは、何より大切なものを失ったその「無の状態」から、どうするかってことを描きたかったんだよね。あの「二度の決断」だけにフォーカスするのはなぁ…とか。男女関係ないだろとか。そもそも「女は何たら」とかいう邦題多すぎ。

それにしてもこの映画のダイアン・クルーガーはカッコいい。現実から目を背けてしまうところもあったにしろ、それが後々裁判で不利に働くことになったにしろ。どん底の状態からの這い上がり具合に、彼女のように振る舞えたらと思うところが多々あった。それが正しいかどうかは別として。且つ加害者たちが憎すぎて、この沸々と煮えたぎる思いをカティヤ以上にどう消化していいのかわからん…。

これは単なる復讐物語とは言い難くて、その根底にあるのは、ドイツ(いや、広く欧州か)社会における根深い差別や愛国主義、加害者を守るともとれる法律の限界、それによる被害者や遺族の受ける精神的衝撃など。

今までネオナチという輩、彼らの言わんとするところは、様々なメディアを通して知ってきたつもりだったけど、この映画を見て、国を越えて団結していることには、怖気しか感じなかった。彼らは一度たりとも自らの思想に違和感を感じたことはないのだろうか。このストーリー云々より、そんなことが気になった。唯一の微かな救いは、加害者の父親が、息子らの罪について悔やんでくれていることか。大抵こういう時、親は子を庇うけども。

わだかまりばかり残ってしまうけど、ファティ・アキン、また素晴らしい作品を作ったよ。

2018年35本目。シネリーブル梅田にて。

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