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優しい人なんてクソだからやめな

誰かを好きになるとき、誰かに触れているとき、貴方の心はどこにいるだろうか。
当事者意識と自分の行動が剥離してはいないだろうか。
心からときめいているだろうか。心から他者に関心を持てているだろうか。
どうか優しくならないで欲しい。
誰も彼も、他人に優しくなんてならなくていいのだ。
私は自分で言うのもなんだが、優しい人だ。気が遣えるだとか、そう言う類ではないが人の気持ちが分かる方だ。
例えば失恋して泣いてる友達にはなんて声をかけるか、だとか、どんな優しさがその人に一番響くのかがなんとなく分かる。その人が一番欲する言葉が分かる。
私はそれを言ってあげるだけでいい。
そこに私の共感なんてあっても無くてもいいのだ。
そうなった理由なんて簡単で、傷付きたくないだけだ。薔薇の棘で切るほどの小さな傷ですら受け入れ難い。
一定の距離に入られていちいち傷付いたりムカついたりする体力は私にはなかった。
だったら最初から、触れさせておけばいい。
自分の無害さを、私がどんな形をしているかを触れさせておけば、普通の人は殴ったり引っ掻いたりしない。
わざわざ他人を傷つけてしまうのは、その人がどんな形か分からなくて、得体がしれないせいだ。
なのにどうしてだろうね、触れた瞬間さらに他人の輪郭と自分の輪郭を一つにしたいと、皆願うらしい。
私は何度も、何度も何度もそれに苦しんできた。
ムンクは「愛とは個人の喪失である」と言った。
生物学的に、私たちが愛する人にキスをしたくなるのは「自分の子孫を残すのに適切な相手かどうか見極めるため」だと言われている。
だけど貴方は私になれるだろうか。私は貴方になれるだろうか。
ムンクのこの言葉を聞いたとき、私は泣きそうになってしまった。あまりにも理想の愛の形だと思ったから。
クリムトの接吻を上野で見たとき、シェイプオブウォーターを映画館で観たとき、山うた先生の兎が二匹の最後のページをめくった時、嫌になる程思い知らされた。愛は。
愛は「貴方になること」なんだと。
誰しも願っているのだ。途方も無く寂しい夜、永遠に沈みそうにない真っ赤な夕日の前で、真っ白な冬の朝で、自分のちっぽけな輪郭を思い知らされる時。
どうしようも無く愛する人にキスがしたいと願いはしないか?
こんな、つまらない色の肌も、抜けていくだけの髪の毛も、目も耳も鼻も、私を私と定義づける何もかも、全て取り払って貴方とひとつになれたらいいのに。
それが皆の求める愛なんだと私は思っている。
そしてそこに、私の心は居ないのだ。
私は愛する人に、そして貴方になれることは一生ない。
貴方は私に寄り添うことはできるだろう。手を繋いで、キスをして、セックスをして、愛してると囁くことが出来るだろう。
でもごめんね、私はそこにもういない。
1ミリでも傷つきたくない私の心は、他者を理解しようと、共感しようと、優しくしようとして傷付いた場所を、細胞で補うことは出来なかった。
体についた傷は、白血球が菌を殺して血小板が瘡蓋を作ってくれる。でも心にそんな機能はない。
傷がついた部分は、腐って落ちて、隙間が空くだけだった。
同じ形には二度と戻らない。そうやって傷付いたのは、心に他人を触れさせた自分のせいなのに。
私は痛いと伝えることもやめて欲しいと言うことも、やり方をよく知らないまま他人が一番必要とする言葉で、あり続けてしまったと思う。
いつからか、誰かと話していても、抱き合っていても、キスしても、セックスしても、私の心はいつも遠くにいる。私とは違う場所で、頬杖をつきながら、つまらなそうに私を見ている。
そんな風に心を遠ざけたのは私。
愛を注がなかったのは私なんだ。
この歳になってやっと自分の心に、遠ざけてごめんなって思えるようになった。
でもそうやって閉じこもった心はもう一生私の国から出てこない。
だからどうか、貴方には優しくならないで欲しい。
優しさは美徳だと思う。
人生を生きやすくする素晴らしいツールだ。
でも優しさと、愛する人への愛は両立できない。
正しく愛する方法を無くすくらいなら、もういいよ。

誰も優しくなくていいよ。

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