アンフェミ界隈で話題の”寝そべり”について

近頃、アンチフェミ界隈で寝そべりというワードをよく目にする。特に筆者も購読している白饅頭氏のnoteではしきりにこのワードが登場している。


寝そべりとは、中国で今社会問題となっている寝そべり族を基にした概念だ。寝そべり族とは早い話、仕事もせず結婚もせず一日中寝そべって暮らす人たちの事を言い、社会的な責務を丸々放棄した人たちの事を指す。

こうした寝そべり的な概念を女性優位な社会への対抗策として用いようという議論がアンフェミ界隈で登場している。考えをざっくり要約すると以下の通りだ。

きつくて負担の大きい仕事を男に押し付けるだけで、女は何も感謝しない!それどころか尚被害者ポジションを取ろうとする!世の中も女の意見を真に受けて旨味だけジェンダー平等にしようとする!そんな社会をどうして守らなければいけないんだ!

こうした考えの下、

・「こんなクソみたいな社会などいっそ壊れてしまえばいい!」という復讐心

・「責任を背負って欲しければ相応の見返りを用意しろ!」というストライキやボイコット的戦略

・「自分を虐めた女や社会が痛い目に遭う所を見てざまぁ!と言ってやりたい!」という怨念

といった考えが複雑に入り混じる形で、中国のような寝そべりを日本の男性も行使しようという話に発展しているのである。


だが筆者としては、その考えは辞めたほうがいい、と正直思う。寝そべりの理屈自体は理解できるのだが、それによって生じるリスクや代償があまりにも大きすぎるからだ。

寝そべりで社会への責務を放棄するという事は、現在提供されているインフラやサービスが滞り社会全体が機能不全になるという事だ。そしてそれは、自分が今現在享受している便利な生活も成り立たなくなる事を意味する。自分が寝そべっている裏で他の男が自分の生活を保障してくれるなんてことにはならない。寝そべりにはPCやスマホ、それらを使用する為の通信機能が重要なアイテムとなるが、誰がそれを整備して維持するのか?

そうして不便で日常生活をこれまで通り送るのもままならない社会になった時、自分達の「権利の行使の結果」として受け入れられる人がどれ程いるだろうか?というか、そのような社会で最も割を食らうのは実は弱者男性ではないだろうか。高齢者や女性であれば限られたリソースを配分する形で支援にありつける可能性が高く、アルファ男性なら自分の能力を駆使して困難を乗り切ることが出来る。だが、弱者男性はそうした救済措置にありつける可能性が低い。女性への対抗として起こしたはずの行動が、自分の生活の困窮として跳ね返ってくる可能性はあると言わざるを得ない。

もう一つ問題なのが、寝そべりは時間的な損失が発生するリスクも非常に高いことだ。寝そべりをしている間は、言い方は悪いが遊んで暮らすも同然の生活を送ることになる。この期間に投資で資産を築いたり、来るべき時の為に資格習得でもしていれば話は変わるが、責務を放棄する事が寝そべりをやる動機になっている以上、こうした自己鍛錬に乗り出す人はほぼいないだろう。

その為、数年後に社会や自分の意識の変化で「やっぱ寝そべり辞めよ」となった時、寝そべりに費やしていた時間の分だけ自分が得られるはずだったスキルやキャリア、資産等を失う結果になってしまう。そこから再起を図り、社会復帰を果たすのは容易ではないだろう。またこの時点で寝そべりの概念が世間にも知れ渡っていたら、「自分でやったことの結果だろ?自業自得だし助ける理由ないわ」と見捨てられる可能性も高い。今の世の中で寝そべりのような行動に出る人を好意的に見れる人は「同業者」以外には恐らくいない。寝そべりに賛同しなかった男性が過酷な環境の中でもキャリアを身に着け周りからの称賛を浴びる一方で、寝そべりを選んだ人は何も残らないという二極化に終わる可能性が高い。


ネットで寝そべりに賛同したり寝そべりの概念を持ち出す人を見ると、「女ばかり贔屓する世の中が許せない」という気持ちが高まるあまり、極端な方向に走っている人が多いと感じる。

前述した

・「こんなクソみたいな社会などいっそ壊れてしまえばいい!」という復讐心

・「責任を背負って欲しければ相応の見返りを用意しろ!」というストライキやボイコット的戦略

・「自分を虐めた女や社会が痛い目に遭う所を見てざまぁ!と言ってやりたい!」という怨念

という考えの中でも特に3つ目の「ざまぁ!と言ってやりたい」気持ちが先行してしまってるように見えるのだ。

筆者も日本のジェンダー平等施策には反対だし男性が不遇になっている社会の環境は変えていかなければないと考えているが、ここまで来ると彼らの思想には付いていけない。

「男の尊厳を取り戻すために戦う」と言えば聞こえはいいが、それがバランス感覚の欠いたものになってしまえば、アンフェミの活動も結局フェミニストのやってきた過激な運動と同じような立ち位置になり誰も得しない結果になるだろう。界隈の今現在の”ノリ”はもう少し見直した方が良い。

ちなみに同様の理由で「いっそ行きつくところまでいけばいい」という加速主義の発想にも筆者は反対である。

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