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【漫画レビュー】『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』 ~「透明な傑作」を体現したコミカライズ

以前から『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』に関して、触れてきたが今回コミカライズ版も単行本として出たので、これについて話していきたい。

『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』(漫画:手名町紗帆 原作:燦々SUN  キャラクター原案:ももこ)、このコミカライズは原作出版社であるKADOKAWAではなく、講談社から出版されている。ここを不思議に思う人もいるかもしれません。
そのため、この点にも触れながら、本コミカライズを見ていきたい。

先にこのコミカライズの総評を語ると、「透明な傑作」を体現したコミカライズである。この「透明な傑作」とは漫画「タイムパラドクスゴーストライター」に出てくる考え方で、「全人類が誰でも楽しめる漫画」を意味する。
ただ、「全人類が誰でも楽しめる漫画」とは理想論といえるだけに、それを体現とは、いかに。それについて語っていこう。

■疑問に思う、コミカライズ経緯

まず、コミカライズがなぜ原作出版社でなく、他社で行うことになったのか。この点から見ていこう。

コミカライズが他社というのは何も珍しいことではないが、販売当初の大プッシュ、宣伝されていた本作では変と感じる。

一旦、邪推抜きにして考えると、KADOKAWAが持つ漫画雑誌で週間ベースがない事が要因では無いかと思った。月刊連載でのスピードでは旬なライトノベル作品をコミカライズするには適していないからだ。
これは私の中でもしっくりする考えであるが、しかし、今は漫画雑誌は紙媒体だけでなく漫画アプリ、ネット掲載もあり、これであれば週間ベースでの連載はKADOKAWAでも行われている。

では、他に考えられる点は読者層である。

ここに関してはコミカライズ版を読んでいても感じられる。また、それを証明するような漫画家の発言もある。

台詞としての「お可愛いこと」、またその構図はある程度は元ネタである漫画作品はもちろん、汎用性の高い画像素材としてインターネットミームでも知られている。

だが、このコミカライズの読者層では知らない可能性が高いと漫画家は判断している。また、読者層の設定においては編集も同じ認識とみて問題無いだろう。

この出典元、「かぐや様は告らせたい」はアニメ化、実写映画化もされるほどの人気作である。また、この原作である『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』自体、「かぐや様は告らせたい」をオマージュしたような舞台設定である。

それなのに、知らない可能性を想定しているのは、普通の漫画、ラノベ読者を想定しているのでは違和感のある話。

だが、この違和感に対してこう仮定したらどうなるだろうか?

普段から漫画を読む層に向けた、コミカライズではない。
それだけに原作の出版社ですら、漫画連載開始を決めかねていたのなら。
あくまで、ここは私の仮説である。

しかし、他社でコミカライズに至った理由、また自社でコミカライズを見送った理由は明確に存在する。
そして、人気作である以上は、人気の有無は理由ではない。

一旦はこの経緯を忘れて、コミカライズの中身を見てからこの点は語っていきたい。そう、「透明な傑作」を体現した部分について語っていこう。

■「透明な傑作」は上手いではなく、外れがないこと

このコミカライズに関して、ほぼ原作をなぞっている。原作ありきのコミカライズであれば、当然である。特に他社の作品であれば、なおさらであろう。

そして、漫画家の絵柄の雰囲気は原作イラストのももこ氏に似ており、更に意匠を原作によせている。

それだけに原作の展開も同じ、イラストのテイストも似ている。理想的なコミカライズといえよう。これが第一の「透明な傑作」と感じた点である。原作ファンなら誰もが楽しめ要素である。

だが、それだけにこのコミカライズからは漫画家らしさが感じられる事は無かった。

悪いことの追撃とはなってしまうが、この作品を漫画として見ると、コマ割、構図が単調。また、描き込まれる背景、小物類もペイントツールの素材をそのまま配置しているのか、人物とのバランスが悪い場面もちらほら。そして、絵で話を繋いでいるだけの印象が強い。

ここは漫画家の技量、漫画力ではあるのだが、ただ一定レベルの技量さえあれば、この内容なら誰が描いても同じであろうと思ってしまう。

「タイムパラドクスゴーストライター」を読んだ人ならご存じの通り、「透明な傑作」とは個性の排除という面もある。
それだけに盗作から始まるこの作品での「透明な傑作」とは、誰が描いても真似できてしまう脆さも孕んでいる。これは「タイムパラドクスゴーストライター」内でも描かれている要素である。

そう、誰でも描けてしまうと思ってしまうのが、第二の「透明な傑作」と感じた点。

原作完全再現、漫画家の個性排除。文字通り原作通りに描けたコミカライズ。

ただ、逆にコミカライズで原作完全無視、漫画家の個性全開というのは成立するのか?
これに関しては以前、私も語った「追放されたチート付与魔術師は気ままなセカンドライフを謳歌する。」が体現している。それが良いか悪いかは難しい問題だが、話題性もさることながら、漫画家の個性が十二分に評価されている。
その点では正しいと言えるだろう。

また、原作の流れそのままであっても、漫画家の個性で上書きしたコミカライズ作品「紙山さんの紙袋の中には」などもある。

ただ、こちらの作品に関しては、原作を食った感が強く、漫画家に対してどこか嫌悪感を覚えるほどであった。だが、『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』のコミカライズと比べると、漫画家の個性は明確に作品の味となっていた。

「タイムパラドクスゴーストライター」でも「透明な傑作」とは明確な間違いではないが、漫画を描くにあたっては本流ではないとは示されている。むしろ、序盤から個性の大事さが説かれていた。

そんな中で「透明な傑作」とは、「ハンバーガーとコーラは世界で一番売れている」と変わらない。そう、「一番美味しい」のではなく、外れることは少ない味である。そして、誰でも味を再現することは難しくない。

それでも商業として一定水準を維持する、この漫画家も今にとっては貴重であろう。今の状況下では外れなく作ることは正しい選択とも言えるから。

■見えてくるターゲット層とは

さて、「透明な傑作」と感じた点から、漫画家が読者は「お可愛いこと」を知らないだろうと発言したことについて再考すると、答えが見えてくる。

明確にこのコミカライズは漫画を読む層に向けたコミカライズではない、と。「全人類が誰でも楽しめる漫画」とは、老若男女、読者の経験、知識量も考慮されているはずだから。

そして、これを証明するもう一つの要素が、連載が漫画アプリである事。

漫画アプリと雑誌の違いは、アプリであれば見たい物だけ見れるが、雑誌であれば読む気がなくともページをめくる間に眼に入ってくる。そこで読まれることで有名になる可能性もある。
週刊少年ジャンプでの連載するということは、この可能性の固まりである。

漫画アプリ内でもトップで人気作が分かるが、選択されなければ読まれない。また、あまり人気のない作品にはその配慮はない。これだけで雑誌の可能性には及ばない。

漫画アプリ内のコミカライズにおいて、よりタイトルを知っている層に向けているといえる。作品のネームバリューが読みに行く動線となるからだ。

ここから、漫画を読まない層をターゲットにしていると考えられる。

ここまでは個人の推測であるから、実際はどうかは分からない。それでも漫画家の発言や公開された情報を元に考えると、そう思うことには不自然さはない。

そして、漫画として読んでいても「透明な傑作」な違和感が拭いきれない部分がある。他のコミカライズ作品でも、あまり感じることのない違和感が。

■人気作とは思えない、管理されてない現状

ただ、これまでの内容は私が連載を追いながら感じた内容。今回、単行本を読んで考えは大きく変わっている。

ここから私自身の完全な思いではあるが、人気作とは思えない雑な管理がなされていたからだ。

毎度思うのだが、なろうコミカライズの原作者書き下ろしSS って、スカスカであったり、小説という体でなかったりと原作の酷さを読むまでもなく、目で視認できるモノである。こと本作でも、例に漏れることはなかった。

しかし、原作者書き下ろしSSとは原作に対する動線。文章を読むことなく、目だけ酷さが分かる作品を買ってまで読む気になれるだろうか?

それは原作者が悪いという話ではない。他社でコミカライズしている以上、原作を売る機会として原作側の出版社も厳しく管理すべき内容だと思う。

それが出来てないというコトは人気作と認識していないのではないか?それだけにコミカライズを他社に任せたのではないか?
人気作という点も、当初のプッシュ具合もなくなっているだけに私の邪推じみた考えに信憑性を付与している。

ただ、その点も含めると原作ファン層に向けた作品なら特に問題の無い要素なのかも知れない。コミカライズとしては「透明な傑作」なだけに。


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