【実験小説】Case1:雨宮雪子の場合 12

雨宮雪子の目の前にはキャンバスがある。なにも描かれていない長方形の白いキャンバス。それは常にある。雨宮雪子が存在するありとあらゆる場所にある。

彼女は鉛筆を持つ。右手が眠りから覚める。彼女の頭に渦巻くあらゆる言葉と思考のネットワークに右手は接続する。

イメージを創るのは私だ。

右手は一人つぶやく。そして動きはじめる。緩やかな曲線が少しずつ形を作っていく。

「そうだ、これは陶器だ」

色彩のない陶器が姿を現す。

「誰かが見ている、誰かが見ている」

キャンバスには視線が埋まっている。右手はその視線を黒く塗りつぶす。

「色彩だ。色彩が必要だ。待て、まだ待て!」

右手の思考が切断される。意識は頭に戻る。雨宮雪子は一つ咳をする。そして魔法瓶の蓋をあけ、そこにコーヒーを注ぐ。ゆらゆらと白い湯気が宙を舞う。少しだけコーヒーの香りを嗅ぎ、そしてゆっくりと口に運ぶ。

「あつっ」

言葉を発するとぼんやりとした頭に思考が戻る。二つの目で自分が描いたものを丁寧に確認する。

キャンバスの真ん中に陶器でできた便器がある。旧式の便器だ。鉛筆で描かれた曲線によって生み出されたそれは心なしか光っているように見えた

。雨宮雪子は頬を右手でさする。つるりとした感触が陶器の表面を思わせた。

「私はなにを描いているのだろう?」

雨宮雪子は声に出してそう言う。

「性だ。お前の性だ」

右手はそれに答える。しかし雨宮雪子の耳には届かない。いまや右手は雨宮雪子の頭部が支配するただの身体の一部にすぎない。雨宮雪子はもう一度コーヒーを啜る。キャンバスを見つめる二つの目。

「色彩だ」

彼女の口から発せられる言葉に右手は満足する。

「そうだ、色彩だ」

雨宮雪子は鉛筆が置かれた机に絵の具を広げる。目が色彩を感知する。

赤。目が覚めるような赤。

そう、ここには赤があればいい。それ以外の色彩は不要だ。

雨宮雪子はパレットに赤い絵の具をのばす。そして、キャンバス再び。

全体の構図、便器の形態、そして色彩。どの位置にどのくらいの大きさで赤を差し込むのか。雨宮雪子は考える。赤の位置と大きさでこの作品の全てが決まる。

「私に任せろ、私に任せろ」

右手が叫ぶ。しかし雨宮雪子の耳には届かない。

雨宮雪子は右手の人差し指に絵の具をのせる。そしてそれをじっと見つめる。目に映る赤は頭の中にある雑多な情報を繋ぎ合わせる。快楽、羞恥、罪悪感。多様な感情が生まれては消えていく。雨宮雪子は人差し指をキャンバスに置く。

「さあ、あとはあなたに任せるわ」

雨宮雪子は静かに目を閉じる。右手がゆっくりと動き出す。キャンバスには完璧な大きさと形状の赤が広がる。

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