【実験小説】Case1:雨宮雪子の場合 5

春の風が雨宮雪子の頬をなでる。穏やかな日差しが辺りを包み、人々は心なしかいつもよりゆっくりと歩いているように見える。

ダークカラーのサラリーマン、桜の花びらを模ったコースター、散歩する犬、グラスの水滴、ドラッグストアの店頭に並ぶトイレットペーパー、白いミニバン、腰の曲がったお婆さん、赤い眼鏡のフレーム、走る少年たち、点滅するパチンコ屋の看板、つぶれたペットボトル、郵便ポスト。

目に映るモノを頭が自動的にデッサンしていく。

ピンクのパンプス、止まれの標識、禿げたおじいさん、ミッキーマウスのトレーナー、自動販売機、街路樹、接骨院の犬のキャラクター、AKB48。

「よっ、たそがれてるな」

頭の中のデッサンをやめ。声の方に顔を向けるとそこには寺原直樹がいた。

「べつにたそがれてないけど」

「また脳内デッサンか?あきないね」

寺原直樹はそう言うと雨宮雪子の向かいの席に腰を下ろした。

青いストライプのシャツ、ベージュのチノパン、黒ぶち眼鏡。

オートマティックデッサンが続く。

「あー、なんか疲れた」

寺原直樹は大きく伸びをした。

二の腕の血管、喉仏。

「そういえばさ、ヨシくん知ってるだろ?ほら、オレの高校の同級生。一回会ったことあったよね。サイゼで飯食ってるときに、ちょっとだけ顔だしたじゃん。そのヨシくんがさ、彼女できて、ねっ、なんかウケない?オレは一生彼女作んない、一人で生きていくんだとか言っててさ、いや、お前、彼女作んないじゃなくて、できないんでしょって。それでオレは山に籠る、人と交わらないとか言ってたくせにさ、彼女できたら会うたびに彼女の話ばっかで。彼女とどこ行ったとか、何回キスしたとか。いやいや聞いてないからって。いや、人間恋をすると変わるね。服装もだいぶ変わった」

シルバーの腕時計。様々な角度に折れ曲がる五本の指。白く光る爪。うっすら毛の生えた手の甲。人差し指の古い傷跡。浮かび上がる血管。

寺原直樹はアイスコーヒーの一口すする。

「まあ、でもよかったよ。ヨシくん楽しそうだし。実際、友達として心配もしてたから。よかった、よかった。でも、おれも勉強になったよ。人間てさ、やっぱり感情の生き物だよ。ヨシくんもどっちかっていうと頭でっかちな方で、先回りしていろいろ考えて、いろんな想定して、それで一人で勝手に納得しちゃって、山に籠るだよ。それがさ、ちょっとした偶然で彼女できると全く変わっちゃうんだ。確かに人間は頭で考えて理論立てて行動するんだけど、でもその根っこはやっぱり感情でさ。その頭で考える論理だったり損得勘定もさ、感情に左右されるんだよ。誰かが言ってたけどさ、『私たちの思考は海に浮かぶ小さな島みたいなものだ』って、ああ、ああ、そういうことねってなんか納得がいった。オレの小説のキャラクターもさ、どこか不自然だなって感じだったからさ、生きてない感じ?それがちょっと改善されるかも。ヨシくんに感謝だね」

収縮する瞳孔、白目の血管、一重まぶた、目尻のほくろ、鼻の傾斜、陰影、細かく動く唇、見え隠れする舌、顎の角度。

「キャラクターなんてさ、属性を設定すればあとはそれに沿って書いていけばいいじゃんって思ってたけどさ、それじゃさ予定調和っていうか、人間ていろんな部分があってさ、性格だって急に変わるかもしれない。この人はこんな行動しないって考えちゃうと、小説が貧しくなるっていうか。結局は外部からの刺激と刺激に対する反応なわけで、外部の刺激はそりゃいくらでもあるでしょ、恋もそうだし。その刺激に反応する自分だっていろいろあるわけでしょ。機嫌がいいとか悪いとか、眠いとか腹減ってるとか、それに過去と現在と未来ではしている経験も違うし蓄えた知識の量も違うでしょ。それをさ、掛け合わせるとそれこそ無限の状況が想像できるじゃん。小説はその状況を書き起こすわけだけど、状況の一回性は過去からの連続性に回収されなくてもいいんじゃないかって思ったのよ。無限にある可能性の中からその状況は突然立ち上がってくるの。原因も理由もない。ただ状況が立ちあがる。その状況になった原因や理由は結果からしか推定できない。そうすると小説内の矛盾とかさどうでもいいんじゃないかって思ってきて。設定ミスを恐れないというか、そもそも設定している時点で自然じゃないっていうか。あー、まだうまくまとまんないけど、ようするに、オレもちょっと進化した感じ。ねえ、聞いてる?」

生え際の産毛、ワックスの艶、平面と凹凸、対象と非対称、髪の毛の束、耳の穴、ニキビの痕、光の角度。

「ねえ」

肌色のグラデーション、浮きがる赤、沈み込む青、黒と光、ささやかな緑、コントラスト、淡い黄色、濃いグレー、統一させる白。

「おい!」

「え?」

「え?じゃないよ。聞いてる?オレの話」

「えーと、なんだっけ?」

頭の中に描かれた寺原直樹の顔が乱れていく。

「ユキ、お前また脳内デッサンしてただろ」

描かれた表象が消え去った後には生きた寺原直樹の顔があった。身体がゆっくりと現実に馴染んでいく。

店内のざわめき、動き出す人々、色鮮やかな世界。

「人が話してるときは脳内デッサン禁止な」

「ごめん、なんか習慣になっちゃって」

「天才画家さんも礼儀はまだまだだな」

寺原直樹はそう言うとコーヒーを啜り、一つ大きく息を吐いた。雨宮雪子は身体に染み込んでいく現実を少し重たく感じながら、寺原直樹と同じ動作でコーヒーを飲んだ。すっかり冷えたコーヒーはやはり現実の味がした。

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