【実験小説】Case1:雨宮雪子の場合 10
ここに一つのテクストがある。雨宮雪子によって書かれた雨宮雪子の考えが現れたテクスト。
読み物としての完成度は決して高くない。論理の飛躍やつじつまの合わない箇所も散見される。しかし私たちはこのテクストを重要視している。雨宮雪子という存在を知るための貴重なデータとして扱っている。
彼女は言葉によってどう思考し、どう自分を表現するのか。絵でなく、言葉という記号をどう選択するのか、どう配列するのか。
ここではその一部を転記するにとどめる。
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私は考える。すすきのように、赤とんぼのように。空から降り注ぎ、大地を流れる。ゆっくりと考えることしかできない。私は頭が悪い。言葉を使うことがうまくない。
でも、考えることは嫌いではない。考えることは絵を描くことなのだ。頭が働かなくても構いやしない。
私は考える、右手で、筆で、パレットで。すすきのように、赤とんぼのように。
【問一】 私はなぜ描くのか
そこに一つの点がある。点はゆっくりと動いて線となる。線は揺れ動き、回り、弧を描く。それを目で追っていくと一つのモノが現れる。
モノは私の目の中で形を作り、そして与えられている名前を教えてくれる。
「ああ、消しゴムね」
私は納得しない。私の右手は納得しない。紙とペン。私の右手は点からはじまったそのモノを写す。紙に現れることでやっと右手は納得する。
「そうだ。これは消しゴムだ」
現実にあるモノはまだいい。私の目は私の頭の中にも存在する。
最初は点。また点だ。現れる。私の頭の中に現れる。モノ、モノ、モノ。
モノが合わさるとイメージになる。私は思う。
「ああ、妄想ね」
私は納得しない。私の右手は納得しない。紙とペン。私の右手は私の頭の中に現れたイメージを正確に写す。紙に現れることで右手は納得する。
「そうだ。これはイメージだ」
【問二】 私の描くものは一体なんなのか
現実とイメージの境はいつも曖昧だ。どこまでが本当に起こっている事実か、私の頭の中にある妄想なのか、それを区別することは難しい。
私には目がある。犬や猫や猿や豚と同じ、あの目だ。しかしそれは彼らと同じ目なのだろうか。
私の目は見る。彼氏、友達、携帯電話、画集、ペン、雑誌、鞄、机、アニメ、ハンバーガー、ぬいぐるみ、アコースティックギター。
私の目は動く。私の目は空間を見つける。空間に配置されるモノたち。それは突然現れる。私の目は状況を認識する。色彩を帯びた風景という名の現実。
ではイメージはどこからやってくるのか。イメージはいつも外部のモノから呼び起こされる。友達、ハンバーガー、ぬいぐるみ。
モノの組み合わせが私の頭の中でイメージをつくりだす。それは目の前にある状況ではない。それは私の頭の中だけにある景色だ。イメージは現実から遠くない。現実の模様替え。
私はなにを基準に模様替えを行っているのだろう。私に個性というものがあるとしたら、それが多くの人とは違った特殊なものだとしたら、それは模様替えを行う上での基準のことなのだと思う。フランシス・ベーコンはこう言う。
『こんなことが気になって仕方がないんだ。
どうやったらまったく理性的でないやり方で作品をつくることができるのだろうか。
見た目の上だけでイメージをつくり直すのではなくて
わたしたち自身が把握しているあらゆる感覚の領域をつくり変えたいんだ』
フランシス・ベーコンの絵も、その造形とは違い、現実からそれほど離れていない。彼はただ現実の模様替えをしたのだ。一般的な形式を他の様々な形式に置き換えたのだ。
彼の目は私の目が映しているモノと変わりないモノを映していたはずだ。彼の希望が本当の意味で果たされたか、彼が生きていれば聞いてみたい。感覚の領域はつくり変えられたのか?と。
私のイメージも現実の置き換えにすぎない。それは多くの人と同じことだ。ただその置き換えの仕方、作法になにかしらがあるのだろう。
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