【実験小説】Case1:雨宮雪子の場合 8

「まさにぴったりの天気だね」

千葉は窓の外を眺めて嬉しそうにそう言った。

「なにがぴったりなんですか?」

「雨」

「雨?」

雨宮雪子は遠くに見える窓ガラスを眺める。いくつもの水滴が遠い記憶を喚起し、微かな頭痛をもたらす。

「そう、雨」

「私が雨宮だからですか?」

頭痛が大きくならないように雨宮雪子は視線を千葉に戻す。そしてマグカップに両手を添える。じんわりとした暖かみが皮膚を通して頭に伝わる。頭痛が少しずつ和らいでいく。

「そう。雨宮雪子と冬の雨。ぴったりだね」

「ずいぶん安易なんですね」

雨宮雪子がそう言うと千葉は柔和な笑みを浮かべた。

「たしかに。安易な発想だ」

「安易ですよ、究極の安易。雨宮だから雨がぴったり!なんですかそれ、小学生ですか?」

千葉の笑みが一層深くなる。その表情は雨宮雪子にピカソのゲルニカを想像させた。

「ごめんごめん、でもね、そんな単純でもないんだよ。雨宮だから雨ってわけじゃない、雨宮雪子と冬の雨なんだ。一般的な雨宮さんじゃなくて固有名詞の雨宮雪子。そして冬の雨。わかる?」

歪な牛の顔。対称性を損なわれた人間の顔。ちぎれた身体。泣く母。その腕に倒れこむ子供。人間の認識は対象がどんなに歪もうともそこに刻まれた感情を読み取ることができる。苦しみ、悲しみ、嘆き、叫び。雨宮雪子は小さく首をふる。

「冬、これは死の季節だ。植物も動物も眠りにつく。眠りとは一時的な死だ。冬にはこの世界は一時的な墓地になる。するとどうなる?死者が蘇る。生者と死者の境界があいまいになり反転するんだ。雨、それが合図だ。雨を通して死者はこの世界に蘇る」

「オカルト」

千葉は雨宮雪子の言葉に再び笑みを返した。その表情は正確な対称だった。頭に鈍い痛みが走る。雨宮雪子は人差し指でこめかみをおさえる。

「オカルトじゃない、象徴の話だよ。人間は象徴の中で生きている。それはきみも理解してると思ってるんだけどな。冬、死の世界。死者を蘇らせる雨。そして雨宮雪子」

「私?」

「そう。雨宮雪子は死者を弔う。死者の声を聞き、そこに慰めを与える。冬が深まり、雨はやがて雪に変わる。死者は再び土の中に戻っていく。なぜだろう?それはね、きみが声を聞いてくれたからだ。そうすることで死者は生者の中に生きることができる。春が訪れる。生者は目を覚ます。彼らに冬の記憶はない。でも死者の声がしっかりと刻まれている。彼らはきみの絵を見て思い出す。死者たちの声を。雨宮雪子とはそういう存在なんだよ」

「象徴の話」

「そう。象徴の話」

マグカップの中のコーヒーが少しずつ冷めていく。手に伝わる熱も次第に薄れていく。雨宮雪子はぬるくなったコーヒーをゆっくりと啜った。そしてまたゲルニカを頭に浮かべた。象徴の話。象徴としての絵画。象徴としての芸術。私の絵がなにかの象徴であるのなら、象徴をつくりだす私とは一体なんなのだろう。

「人間」

「えっ?」

「いや、人間が生きるっていうことはやっぱり大変なことなんだなって改めて思うよ。きみの絵を見るとね。だからこそ尊い。美しい。きみの絵も人間の生もね」

「ああ、はい。いや、一瞬頭の中を覗かれたかと思いました。千葉さん、もしかしてテレパス?」

雨宮雪子がそう言うと千葉は楽しそうに笑った。

「うーん、自分がテレパスだと思ったことはないかな。そうだったら楽しそうだけどね。きみが絵を描くとき、頭の中がどうなってるか見てみたい気がするよ」

「別になにも考えてないですよ」

雨の音が急に大きく聞こえる。雨宮雪子が振り返ると誰が開けたのか窓が開いていた。冷たい空気が頬に伝わる。自然とマグカップを掴む手に力が入る。

「寒いね」

千葉が呟く。雨宮雪子は肩をすくめる。間欠的に訪れる頭痛は突然の冷気によって意識から遠のく。冬。雨宮雪子と冬の雨。雨宮雪子がバッグに入れていたマフラーを首に巻くと千葉は立ち上がって窓を閉めにいった。

「まったく、誰が開けたんだか」

千葉が独り言をつぶやきながら戻ってくると雨宮雪子は首からマフラーを外した。

「ありがとうございます」

「いや、なんだろうね、この寒いのに窓を開けるなんて」

「自然に空いたんじゃないですか?」

「自然に?窓が?」

「はい。ポルターガイスト」

「ポルターガイスト?」

「あるいはサイコキネシス」

「うーん、まあそういうこともあるのかもね。僕がテレパスになるくらいだから」

千葉は笑う。

「きみのそういう発想は好きだよ。なんていうか・・・」

「子供じみた」

「そう。子供じみた」

雨宮雪子が小さく頬を膨らませると千葉は「ごめんごめん」と笑った。

「そう。きみの個展のことなんだけどね、春ぐらいにはやりたいかな。この前見せてもらった『世代』はいい作品だよ。今までに描いたものもなかなか良かったけど、『世代』によってはじめて雨宮雪子の作品と呼べるものができあがったと思ってる。あれをメインにしたいと思うんだけど、きみはどう思う?」

「うーん、大丈夫だと思います」

「きみ自身はどう思う?『世代』について」

「描き方としては今までとそんなに変わらないかなと思ってます。ただ少し時間っていうものを意識したような気はします。明確に時間を描くってきめたわけではないんだけど、イメージが浮かんで、ああこれは時間だなって思って、それで意識した点はあります。時間って言っても六十秒が一分で、二十四時間が一日で、十二か月が一年、っていうような時間じゃなくて、自分の中で巡っている時間っていうか。まだら模様みたいな・・・。あんまりうまく説明できないけど」

雨宮雪子は外したマフラーを膝の上に置き、それを手で弄ぶ。ふわふわ、もふもふ。マフラーの柔らかな感触が思考を元気づけてくれる。千葉が励ますようにゆっくりとうなずく。

「まだら模様な時間が私の中に蓄積されているような気がするんです。線じゃなくてまだら。濃淡があって凹凸があって、浅くて深くて、それでいて無限に広がっていくんです。無限まだら空間。空間?空間じゃなくて、世界。無限まだら世界」

「それがきみの時間なんだね?」

「はい。それが、無限まだら世界が私を不機嫌にさせるんです」

「不機嫌に?」

「そう、その世界には私を不機嫌にする者たちで満ちているんです。脅かす者たちで。まだら世界でまだらな攻撃が行われるんです。愛情、嫉妬、憎悪、期待、支配。でもまだらだから私はそれをどう受容していいかわからない。ただ不機嫌になるんです」

「無限まだら地獄」

千葉の言葉に雨宮雪子は頷く。

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