【実験小説】Case1:雨宮雪子の場合 4

特別な力、発見当初の雨宮雪子もそう考えた彼女の特性は勉学にはなんの影響も与えなかった。

雨宮雪子の成績は中の下で、いくら勉強してもそこから上がることはなかった。どんなに念じても試験問題と雨宮雪子の頭の中が一致することはなく、そこにはどんな偶然も現れなかった。

成功の快楽がなければそこから離れていくのは自然なことで、おもしろくもない勉強を雨宮雪子はやめてしまった。授業中も家に帰ってもノートに書くのは大好きな絵だった。絵だけは何回描いても飽きることはなかった。

はじめは好きな漫画の模写だった。つまらない勉強の時間も自分の手によって大好きなキャラクターを目の前に召喚することができる。絵を描くことは雨宮雪子にとって魔法だった。自らをゲームの中の幻獣使いに模し、レベル上げに勤しんだ。

レベルが上がれば上がるほどより強力なキャラクターを召喚できるようになる、雨宮雪子の志向は漫画から徐々にハイアートへ向かっていった。図書館に通い、ミュシャや藤田嗣治を好んで模写した。

目に映るモノの形態を注意深く眺めるようになった。そして少しずつ自分の絵を描くようになっていった。

◎ 教師の抑揚のついた声が教室に響き渡る。それにあわせて皆がノートにペンを走らせる音が重なる。隣の男子は教科書を立てて机の上に突っ伏している。微かな寝息が雨宮雪子の耳に伝わる。友達の千尋は頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺めている。視線の先には校庭でソフトボールをしている生徒の群れ。千尋は教師の声に少しだけ気を向けて黒板を見るが、すぐに目をはなし、小さなあくびをするとまた窓の外を眺める。その視線は空に向かう。球体、円筒、円錐。形式をもった雲が流れ、青い背景がどこまでもつづいている。千尋はもう一度あくびをすると肩にかかった髪を右手で軽く払う。黒い髪がさらさらと流れ、微かな香りを運ぶ。夢、倦怠、大人と子供。雨宮雪子はペンを走らせる。目の前の状況が自分の中の感覚の中で抽象化され、一つの風景となる。頭の中でイメージされた風景に形を与えるとそれは雨宮雪子の絵となる。習作「戦士の憩う教室」。

◎ 夕暮れ時のマクドナルド。雨宮雪子とは違う学生服を着た女子高生がお互いの携帯電話を見せ合いながらじゃれあっている。彼女たちの隣にはペシャンコのスクールバッグ。おそろいの熊のぬいぐるみがバッグから垂れている。彼女たちの横を人が通る度に熊はゆらゆらと揺れる。そのゆらゆらにあわせて赤い光が影をつくる。ピロピ、ピロピ。店内に響くポテトの揚がる音。肉と油のにおい。女子高生たちの爆笑。雨宮雪子はペンを走らせる。そこにある現実がゆっくりと立ち上がってくる。自分もそこに含まれている感覚。世界と自分が調和していく、一つの絵となって。習作「まじうけるんだけど、日常」。

雨宮雪子はそうやって不意に立ち上がる状況を絵という形式を使い風景として切り取っていった。写真とは違う、ただそこに在るものではなく、雨宮雪子の現実がノートの上に表象されていた。

ときにはデフォルメされ、ときには必要以上に写実的だった。リアルと抽象が混ざり合い、調和しているときもあればグロテスクなときもあった。

ただそれらはすべて雨宮雪子の現実だった。彼女の現実が調和的であり、グロテスクなのだ。ノートは彼女のリアルで満たされていた。

三冊目のノートが終わるころ、雨宮雪子は芸大に行くことを決めた。勉強の成績はぼろぼろだった。自分には絵しかないし、絵だけはだれにも負けないと思った。

両親や教師も彼女の選択を当たり前のように受け入れた。この子の取り柄はそれしかないだろう、両親は自分の娘を変わった生き物を見るように眺めながら願書の保護者欄に名前を記入した。

受験当日の朝、雨宮雪子は夢を見た。

そこには空白があった。雨宮雪子がいつも書くノートのような純粋な空白。誰もいない。意識はある。自分がそこにいる意識はある。しかし自分の身体は見えない。手もなければ、足もない。胸もおしりもなにもない。身体は空白に飲み込まれていて、意識だけがあった。

いや、意識だけではない、視線も彼女に残されていた。その空白を彼女は確かに見ている。なにも無いのではない、空白が在るのだ。

彼女は瞬きすることもなく空白を見つめつづけている。そして彼女が空白の任意の一点に焦点をあわせると、そこはゆっくりと光りだした。真っ白な光だ。光は次第に大きくなり、空白は光で満たされた。

そのあまりに強烈な光に雨宮雪子は目を開けていることができなくなる

「まぶしーーーー」

雨宮雪子は目を開ける。そこには闇があった。淡い闇。少しずつその闇に目が慣れてくると、そこが自分の部屋であることがわかった。光の感覚が胸に残っている。雨宮雪子はベッドから立ち上がり、四冊目のノートに光を描いた。描き終えるとまたベッドに戻り、母親が起こすまで眠りつづけた。

そして雨宮雪子は芸大に入学した。

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