【実験小説】Case1:雨宮雪子の場合 6

「まあでもやっぱり、すごいよな、そういうの」

寺原直樹はコーヒーカップをテーブルに置くと、右手で頬杖をつき、まじまじと雨宮雪子を見つめた。

「そういうのって?」

雨宮雪子はもう一度コーヒーを啜る。

「やっぱり人と違うところがあるんだよ、ユキは」

「べつに、特に変わらないよ」

コーヒーは少しずつ苦みを増していく。この苦みをおいしいと思うようになったのはいつからだろう、雨宮雪子はぼんやり考える。

「いや、やっぱり違うよ。ユキの絵が人から認められて、オレの小説が人から認められないのはやっぱりユキに人と違うなにかがあるからなんだよ。まあ、それを才能っていうんだろうけどな」

たしかあの絵を描きはじめた頃からだ。ノートのデッサンをやめ、キャンバスに向かって大きな絵を描きはじめたあの頃。女の子の耳に木霊が集まるあの絵。あの絵はいったいどこにいったんだろう。

「見る人が見ればわかるんだろうな。千葉さんはユキの才能をちゃんとに見つだした」

「うん、千葉さんはそう言うね、才能があるって」

「自分ではどう思う?」

「うーん、あまりよくわかってないかな」

「そういうもんかね」

「でもそれが私の未熟なところなんだって。自分の描いている絵の本質?自分の中の核になるところをわかって描くのと知らずに描くのは全然違うんだって。千葉さんはわかってるみたいで、私の絵にいろいろな評論?解釈?みたいのをしてくれるけど、私にはそれが私の本質なのかよくわからない。まあそうなのかなって思うところはあるけど」

「ふーん、自分ではわからないものなのかな、才能って」

寺原直樹の生きた顔から目をはなし、雨宮雪子はぼんやりと光る街頭を眺める。耳と木霊、あそこに私の本質が描かれていたのだろうか、そんな気もするし、そうでない気もする。本質は非本質の中に宿る。誰の言葉だっけ?

「うん、でも、楽しいよ、描いてると。結局そこかな。描かずにいられない」

「おっ、芸術家っぽい発言。でもやっぱそこだよな。その描かずにいられない衝動の中にユキの本質があるんだろうな」

「それっぽいこと千葉さんも言ってた」

街を歩く人々は各々違う動き方をしていた。大きなビニールの袋を持っている中年の女性は少し歩いては袋を持つ手を変えていた。信号待ちをしている若い男性はスマホをじっと眺めながら片足をリズミカルに動かしている。お互いのランドセルを叩きながら追いかけっこをしている子供たち。

自動デッサンに入るのを意識的に止めながら、雨宮雪子は衝動についての思考を巡らせた。

「描きたいときに描かなきゃいけないモチーフがあるわけじゃないなじゃない?反対に描かなきゃいけないモチーフがあるのに描きたくないときだってあるわけじゃない?描きたいときはただ描けばいいの。人でも車でも山でも花でも、なんでも。ただ描かなきゃいけないって思うとき、これってなんなんだろう。ちょっと強迫観念的な感じがする。

あるイメージがふと頭に浮かぶ、それを描かなきゃいけないって思う。べつにだれに強制されてるわけじゃないんだよ、大学の課題でもないし、売り物としての納期があるわけでもないし。ただ頭に浮かんじゃったし、それを描かなきゃいけないって自分が思ってるし、そうするとある種の義務みたいにがなるの、描くことが。それって衝動って呼べるの?」

寺原直樹に視線を戻すと、その顔は真剣に何かを考えているように見えた。

「うーん、なんとなくわかるけど。小説のアイデアが浮かんだらやっぱりオレも書かなきゃと思う。それでこれが完成したらきっとみんな驚くなって思って、それをモチベーションに書いてるかな。義務って感じたことはないけど、それに近い?」

「なんかちょっと違う。浮かんだから描かなきゃって感じ」

「イメージが描かれるのを待っている?」

「待ってない。急かしてくる」

「義務?」

「義務」

どこかで誰かが外国語で話している声が聞こえる。低くくぐもった声。英語?フランス語?ドイツ語?雨宮雪子にはよくわからない。ただその声がひどく耳障りに感じた。寺原直樹は椅子の背もたれに寄りかかり、ぼんやりと天井を見上げている。ぴんと張り詰めた喉の肌が微かに上下する。

「あー、やっぱよくわかんないけど、きっとなんかあるんだよ、ユキには。おれはその才能に嫉妬してるんだ」

寺原直樹は顔を戻し、雨宮雪子に言葉を投げかけた。

「嫉妬?」

「そう。嫉妬。オレだってそれなりに努力して、小説家になる夢に向かって頑張ってる。自分なりにベストは尽くしてるし、面白いものが書けてると思ってる。でもユキと出てる結果が違う、その差がなんなのかわからないけど、そこに嫉妬してるんだよ。芸術作品なんて評価されるかされないかじゃん。ユキは評価されてる、オレは評価されてない。明白。わかりやすい。ただそれだけ。

じゃあ、その差はなんなのかって、それは才能。才能って言われたらもうどうしようもないじゃん。努力は無駄、才能あるのみ。ユキを見てるとそう思えてくるんだよ。努力なんて時間の無駄、夢は叶わない」

外国語が途切れる。寺原直樹の声が他の様々な音をかき消す。コーヒーを飲もうとカップを持ち上げるとカップの中は空になっていた。陶器のつるりとした白さが目にまぶしい。

「そりゃね、自分でも自分の作品の欠点はわかってるよ。結局は誰かの二番煎じなんだ。小説家になるためにいろんな本を読んで、勉強して。それでいざ書こうと思ったら。自分の頭の中から出てくる言葉が全部その読んだ本の言葉なんだ。借り物の言葉。

どんなに自分らしいものを書こうと思っても、オリジナリティなんて一ミリもでてこない。どこかの誰かが言った言葉ばかりが並んでるんだ。どこかの誰かが言った言葉を切り張りして、組み替えて、そんなことばっかりやってるんだ。創作じゃない、パズルだよ。パズルを完成させてそれで、はいこれが私の作品ですって言ってるんだよ。

まるでオレそのものが借り物の言葉で出来上がってるんじゃないかって思うんだ。オリジナリティなんてない、オレなんていない、ここにいるのはどこかの誰かが言った言葉を繰り返す役に立たない駄文製造ロボットだって。そう考えたらもう言葉なんて出てこないぜ。悪夢だよ」

「そんなことないよ、大丈夫」

寺原直樹はコーヒーカップを口に運ぶ。

「そう、大丈夫。ユキは大丈夫なんだ。ユキはちゃんと創作してる。誰も見たことのないイメージをオレたちの前に見せてくれる。オリジナリティ。才能。うらやましい」

雨宮雪子の耳に外国語の声が戻ってくる。やはり低くくぐもった声。一体だれになんの話をしているのだろう。その声の調子からシビアなビジネスの会話を想像する。創作の話ではないお金にまつわる様々な話。

寺原直樹はもう一度コーヒーカップを口に運んだが、そこにはなにも入っていないようだった。カップをテーブルに置き、大きく息を吐く。そして右手で自分の頬を二回叩いた。

「ごめん、なんか愚痴った」

「ううん。愛してる」

「オレも。愛してる」

雨宮雪子と寺原直樹はカップを持って席を立った。雨宮雪子の耳には外国語の声がまだ響いている。その声を無視して雨宮雪子は寺原直樹の腕に自分の腕を絡めた。街頭には穏やかな生活者たちがそれぞれの暮らしを営んでいる。二人はその中にゆっくりと溶け込んでいった。

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