【長編小説】父を燃やす 2-9
部活動によって中断していた勉強を再開した真治はまずは教科書を読むことからはじめた。
クラスメイトが放課後、いそいそと進学塾に行くなか、真治は一人教室に残って教科書を読み続けた。
教科書に書かれている単語、年号、人物の名前、方程式、それらを写真を写すかのように頭に収めていく。ペラペラな紙の上に染み込んだインク、なにかしらの意味を持ち特定の内容を表現する記号を脳裏に思い浮かべそれを映像として記憶していく。
真治は市販の問題集や試験の過去問も解かず延々と教科書を読み続けた。すべての教科書を読み終わるのに二か月半の期間を要した。
最後に理科の教科書を読み終えたとき、真治は部活動以上の疲れを感じた。そして机の上に今まで読み続けてきた教科書を並べた。果たしてこの中のどこまで自分は記憶しているのだろう。
担任に頼み、公立高校の過去問をコピーしてもらう。それを時間を計らずに延々と解いていく。
はじめて解いた5年前の過去問の正解率はおよそ7割だった。真治は自分が間違えた問題を見直し、記憶に違いがあればそれを何度もノートに書いて記憶を改めた。
記憶にたよれない問題はなぜそれがそうなるのかを教科書とにらめっこをしながら考え、それでもわからなければ担任に聞いた。
担任は真治の熱心な姿勢にほだされ、ほかの生徒の手前あからさまに真治だけに指導はできないけれども、放課後など可能な範囲内で真治を応援した。
何度も過去問や問題集を解いているうちに真治は問題を解くコツのようなものを覚えていった。
解答とは空白の内に言葉を見つけ出すわけではなく「問題文」と呼ばれるある文章に対応する言葉を見つけ出す作業だった。
「問題文」を読み、そこから喚起される言葉を記憶の中から呼び起こし、そしてそれを回答用紙に書き写す。その記憶が「問題文」が要請する言葉と一致していれば正解となり、違えば不正解となる。
真治は何度も問題集を解き、そこに記されている「問題文」と自分の記憶を照合していった。
また知識の照合以外の問題、情報を応用し論理的に展開していく作業では、その論理展開の構造を理解しようと努めた。
論理展開とは記憶された情報の組み合わせだった。その組み合わせ方に一定の規則があり、教科書や授業など学校教育が要請するその規則にあわせて情報や知識を組み合わせていくとそれは正解とみなされた。
真治はその規則を身体に染み込ませ、そして頭に記憶されている情報や知識や記号をそこに組み合わせていった。
その作業はとくに苦痛でもなかった。それが自分の目的にとって有用であることは明白だったからだ。その規則を憶えさえすれば自分が今より高い場所へ行けることが理解できた。有用性さえ理解できればどんな作業だろうとつらくはなかった。
過去問を解きはじめて2か月後にはおよそ9割の正解率をだせるようになった。
この目覚ましい真治の成長に憂慮と諦めの気持ちに満たされていた担任の心の内にも小さな希望が宿った。もしかすると受かることができるかもしれない、担任に芽生えた微かな希望は高校受験前最後の全国模試の結果によってさらに大きくなった。
12月に受けた大手進学塾の模試の結果はA判定だった。残り一か月弱、真治の成績の伸びを考えれば志望校への合格も夢ではないと思われた。
真治が合格すれば真治の通う中学としてはじめてその公立高校に生徒を送りだすことになる。担任だけでなく全ての教師が真治の受験に注目するようになった。
いつの間にか負わされた学校中の期待を真治は重圧とは思わなかった。周りが自分にどんな期待をかけようと受験は自分個人の問題だった。自分の目的のためにその高校へ進学するのである。もちろん教師のためでも、母校のためでもない。
真治は期待をかける大人たちを不思議な目で眺めた。なぜこの人たちは他人の目的や行動に自分を重ねることができるのだろう。受験するのは自分だ。そこでどこまで真剣に問題に取り組むのか、どんな解答を書くのか、すべてが自分の裁量のうちにある。教師たちがどんなに期待しようとも自分が途中で受験に意義を見いだせなくなったらそれで終わりだ。そんな自分ではどうすることもできない他人の意思に期待する教師が変わった生き物に見えた。
結果はすべて自分個人のものである、真治はそう考えていた。応援してくれる教師のために頑張ろうという意識は微塵もわかなかった。
ただ一人、母のことを思った。
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