【実験小説】Case1:雨宮雪子の場合 11


【問三】 私の作法とは

私の目は私が過ごしてきた時間の中で様々なモノを見てきた。日常の風景、映画、アニメ、漫画、そして夢。それらは私の頭の奥にしっかりと記憶されている。それらは私の作法のもとに組み合わされ私のイメージとなる。

ここに大きな鍋がある。私はそこに私の頭の中に蓄積された映像をすべて放り込む。火を点け、強火でよく煮込む。煮込んでいるうちに一つ一つの映像は形式が崩れおち、お互いが混ざり合う。個々の原型をなくした映像のスープを掬い取るとそこには私のイメージがある。

抽象的すぎるだろうか。

その私がつくるイメージスープのレシピをここに書きださないといけないのだろう。それがこの問いへの回答になるはずだ。レシピ。レシピ。レシピ

具材は私の中の映像の記憶。皆さまのお好みでどうぞ。鍋はなるべく大きくて深いものをお勧めします。火は最大限に強く、時間はなるべく長く。調味料は感情だ。怒り、悲しみ、喜び、倦怠。それぞれの感情の配分によってできあがるスープの味が変わる。

そしてテーマだ。テーマはどこからくるのだろう。私はこんな味のスープを作ろうと思う。料理のコンセプト。

コンセプトは私にどう与えられるのだろうか。それもやはり現実だ。現実が私の中に作用する。なにがどう作用するかはすべて偶然だ。

そうだ!私は『偶然』という言葉になぜか惹かれる。偶然、偶然、偶然・・・。

【問四】 偶然と私、あるいは偶然という作法

人はそれが偶然であるということをどのように認識するのだろう。辞書にはこう書かれている。

『偶然』 何の因果関係もなく、予期しないことが起こること。また、そのさま。

因果関係のあるなしを判断するのも人だ。私は異なる二つのモノの間に橋を架ける。事象Aと事象Bの間にパイプを作る。それは類似だ。些細な類似でも私の頭の中でそれら二つのモノは繋ぎ合わされる。二つのモノの距離は関係ない。距離が遠ければ遠いほど、それは偶然に近づいていくのだろう。しかし、繋ぎ合わされれば、それはもはや偶然ではない。あらゆるものが繋がっていく。事象Aは事象Bへ繋がり、事象Bは事象Cに繋がる。事象D、事象E、事象F、・・・、事象Z。

私の頭は有機的だ。組み合わせも多様だ。そしてランダムだ。その多様でランダムな事象の繋がりのうち、なにが自分のイメージとして浮かぶか、それは偶然だ。繋がり方、組み合わせ方、事象の選択、外部からの刺激の種類。

突き詰めればそれらすべてに因果関係があり、事後的に見ればそこに一つの論理的必然性が浮かび上がるのかもしれない。

事後的!

私は自分のイメージを事後的にしか認知することができない。あれが原因だったのかもしれない、これが関与しているのかもしれない。すべてが終わった後で、私が描き終わった後で、それらはそのように思えてくる。誰かが私の絵を見て、なにかしらの批評をすれば、私の頭の中の因果が偽装される。

偽装!

そうだ、因果とは偽装なのだ。誰かの言葉が、私自身の言葉が、偶然に満ちた私の頭の中を事後的に偽装する。因果とは偽装であり、すべての規則は図られたものだ。

私は、私のイメージを、私の絵を、言葉による偽装から守りたいと思う。インスピレーションは私自身のものであり、誰かの言葉ではない。

だから私は偶然を演じる。全ての言葉に「No」と答える。

全てのつながりに「No」を突きつける。

「No」こそが私の絵の本質だ。

偶然という作法、それはこの世界に「No」を突きつけることなのだ。

       ●

このテクストは千葉幸太郎の要請によって書かれたものである。言葉の端々に千葉幸太郎の影が見え隠れするが、書かれた内容は雨宮雪子の考えであると私たちは判断した。

『モノ』、『イメージ』、『レシピ』、『偶然』、『偽装』。

彼女が選択した言葉(それが千葉幸太郎によって誘導されたものであるとしても)はまぎれもなく彼女の思想を表現している。私たちはこのテクストを雨宮雪子を知るうえでの貴重なデータとして、重要資料群β―2での保存を希望する。

※なお、雨宮雪子本人はこのテクストを千葉幸太郎の言葉によって図られた偽装文書としてその存在を認めていない。彼女は彼女自身にすら「No」を突きつける!

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