【長編小説】父の手紙と夏休み 11

『僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼びつづけていた』

最後の文章が頭を通り過ぎると読み終えた達成感と終わってしまったという空虚感が胸で交差した。『直子』は死に『緑』は愛される。物語の中の出来事とはいえそれはあまりにも切ない結末ではないか、

奈々子は揺れ動く自分の感情を注意深く観察した。交錯する出来事と複雑な感情を含んだ物語は血液のように奈々子の中を循環する。そしてある一点に集まるとそれは意味を帯びた。奈々子の最も柔らかく、弱い部分はその意味に侵された。胸が締めつけられるように熱くなり、目から涙が止めどなく流れ出た。

奈々子の部屋は赤く染まっていた。その色は涙にぬれた瞳にじんわりと滲んでいった。落ち着かぬ気持ちを抱えたまま立ち上がりカーテンを引く。部屋を支配していた赤はカーテンによって遮断され、淡い闇が奈々子を包んだ。その闇は物語の終わりを奈々子に伝えているように思えた。

物語は終わってしまった。『直子』の死と『緑』の生、そして『僕』の喪失と再生の物語。

「喪失感」

奈々子はその言葉を静かに口にした。父の顔が脳裏をよぎる。父が『ノルウェイの森』を読んだのはいつのことだろう。そのとき父はどう感じたのだろう。自分の人生に『ノルウェイの森』を重ね合わせたのはいつ?そしてそれは父にとってどのような意味を持っているのだろう。

奈々子は無性に父に会いたくなった。会って『ノルウェイの森』について話したかった。自分の気持ちをうまく整理できてはいないが、なにかを語りたいという衝動が胸の中でふつふつと沸きあがってくるのを感じた。それを父にぶつけたかった。ぶつけて受け止めてほしかった。

自分の中の言葉でうまく表現できない衝動、それは父に対する気持ちなのか、『ノルウェイの森』を読んで生まれた心の動揺なのか、それとも奈々子の中にはじめから生きていた自然の力なのか、そのどれだとしても胸の中の抑えきれない衝動は奈々子をいてもたってもいられない気持ちにさせた。

叫びだしたい気持ちを抑え、涙を拭い、奈々子は父の部屋に向かった。

父の部屋のドアを開けると母がカーテンを閉めていた。奈々子の心臓が一度大きく動いた。その音と胸の衝動を隠そうと奈々子は平静を装って母に声をかけた。

「お母さん、お腹すいた」

「晩御飯の支度はできてるわよ、それよりお父さんの部屋に勝手に入っちゃだめでしょ、なにか用?」

「うん、ちょっと調べもの。ネット借りるね」

「なに、勉強のこと?買い物はだめよ」

「わかってるよ」

母はカーテンを二度強く引っ張り、窓の鍵が閉まっていることを確認した。そしてスリッパをパタパタいわせながら部屋の外に出ていった。去り際に「もう夕飯だからすぐ来なさいね」と言った。奈々子はそれに軽い声で返事をし、父のPCの前に座った。

母との会話で胸の中の衝動は小さくなっていたが、父の手紙のことを考えるとそれはゆっくりと膨れ上がっていった。後ろ首を流れる汗を左手で拭いながらPCを立ち上げ、父の手紙を開く。机の右側にあるプリンターの電源を入れて手紙を打ち出す。プリンターが紙を吐き出すスピードに苛つきながらモニターに映った父の手紙に目を走らせる。

『直子』と〈杏子〉、『緑』と〈恭子〉、『僕』と父。父は自分の人生のどこに『ノルウェイの森』を感じたのか。二人の女性の中に?それとも父の病気?

奈々子はグーグルで「ノルウェイの森 直子 病気」と検索した。そこに現れた情報からは正確な答えを得ることができなかったが、多い意見としては「統合失調症」という病気だということだった。

直子はさらに「統合失調症」を検索する。精神疾患、幻聴、妄想、思考伝播。それらの言葉を奈々子はうまく理解できなかった。ただなんとなく恐ろしい病気だという認識を持った。

自分が自分でなくなる病気、『直子』が死を選ぶことになった病気、父が苦しんだ病気。奈々子は普段の父の姿を思いえがいた。物静かで存在感が薄いがこれといっておかしいとは思わなかった。

父は病気を克服したのだろうか、そもそもそれは治る病気なのだろうか、その病気は自分にも影響があるのだろうか。疑問と不安が心に渦巻く。

「奈々子―、ご飯食べるよー」

キッチンから母の声が響く。奈々子はPCを閉じ、打ち出した父の手紙を持って部屋を後にした。ドアを閉めると父のにおいが微かに鼻に残った。奈々子にはそれがなにか異様なもののように感じられた。

夕飯の間も奈々子は父のことが頭から離れなかった。勉強の様子を聞く母の声に対しても上の空で「うん」「大丈夫」と適当な相槌をうっていた。

出されたものは全て食べたがどれも味がしなかった。まるでスポンジか消しゴムを食べているような気がした。ぼんやりとしている奈々子に気を使ったのか母は徐々に言葉を発しなくなった。箸が皿を叩く音と冷蔵庫の鳴き声だけがキッチンに響いていた。

「ごちそうさま」

奈々子は食器をシンクに運び、水道から水を流した。上から下に流れる水が照明の光を反射してキラキラしていた。

「疲れた?」

母の声が耳に響く。奈々子はそれを意味を持った言葉として理解できなかった。流れる水道の水と同じような音の断片だった。

「え?」

「勉強。疲れたの?」

ツカレタノ?必死に頭を働かせて意味を考える。

「うん、ちょっと。お風呂入って寝るね」

水道の水がいつまでもキラキラ光っている。それをずっと見ていたかった。それさえ見ていれば余計なことを考えないで済むような気がした。でも・・・、これは自分が考えなきゃいけないことなんだ。奈々子は水道を止め、母に声をかけた。

「ごちそうさま」

母は小さく肩をすくめた。

手短に風呂を切り上げ、奈々子は勉強机の前に座った。机の上には『ノルウェイの森』と父の手紙が置かれている。その二つをペラペラと捲り、気になった個所をゆっくりと読んだ。

二つの物語の類似点、相違点。それは事実なのか虚構なのか。虚構だとして、その嘘はなぜ自分の心を揺り動かすのか。そこに含まれているのは自分にとってどんな意味をもっているのか。

奈々子は二つの物語を自分に溶け込ませようとした。そしてそこに含まれている人物たちの感情を理解しようとした。

『僕』の感情、『直子』の感情、『緑』の感情、そして父の感情。複雑に織り込まれた感情の網の目の中に自分も絡ませる。

『ノルウェイの森』を書いた作者、そしてそれを読み自分の人生と照らし合わせそのことを誰かに伝えようとした父、そしてそれを読む私。

奈々子は自分が父の子であるという事実をしっかりと理解した。今までそんなこと意識したことがなかったが、自分にも父の血が流れ、そして父の物語に含まれていることがわかった。

『ノルウェイの森』―父―奈々子。

繋がりは意味を帯び、奈々子という存在を確かなものにした。自分が確かにここに在ること、そのことは奈々子を落ち着かない気持ちにさせた。はっきりと自分の存在を感じることがこんなにも居心地の悪いものだとは思わなかった。自分の影が懐かしかった。影はいつの間にか奈々子とぴったりと重なりあい、一つの存在として在った。

「高橋奈々子」

自分の名前が胸を締め付ける。存在の重みが心を苦しくする。奈々子はノートを開き、これからやるべきことを書き記していった。

1. 父の病気について調べる
2. 『杏子』と『恭子』に会って話を聞く
3. 母の気持ちを聞く
4. 父の気持ちを聞く
5. そのとき私はどう思うのだろう・・・
 
やるべきことを書きだすと心が少し落ち着いたような気がした。ノートを閉じ、その上に『ノルウェイの森』を重ねた。父の手紙は机の左側の引き出しにしまい鍵をかけた。

まずは父の病気について調べる。

奈々子は部屋の電気を消し、布団に潜った。明日は図書館に行こう、そう思った。

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