【実験小説】Case1:雨宮雪子の場合 9

千葉はマフラーをいじりながら必死に言葉を探している雨宮雪子を嬉しそうに眺める。

絵によって自分を表現する人間が言葉を使ってなんとか他者に理解してもらえるように奮闘している。それがどんなに拙い言葉であっても深い溝を飛び越えるための必死の跳躍であるならば、受け止める方も真剣にならざるをえない。

柔らかな表情を浮かべながら千葉は雨宮雪子の言葉をゆっくりと咀嚼した。

「無限まだら地獄。きみは『世代』を描きながら地獄めぐりをしたわけだ。水平な時間の中にきみは深さを見つけた。写真によって示された日常の時間の流れの一つ一つにきみは深さを読み取った。深さ、つまり地下の世界。地上ではなく日の当たらない地獄。地獄に渦巻く様々な感情、きみが言うところのまだらな感情をきみは一つ一つ汲み取り、自分の中に浴びせていったんだね。それは不機嫌にもなるはずだ」

「うーん、難しくてよくわからないですが」

雨宮雪子が首をかしげると千葉はその顔を一層柔らかくさせた。

「ごめんごめん。きみが必死で跳躍してるんだから、僕もきみに理解される言葉を見つけないといけないね。ようするにきみは家族に対して複雑な感情をもってるんじゃないかな。愛されていたいけど、鬱陶しい。みたいなね。特に母系的なものに」

「母系的?」

「お母さん、お祖母ちゃん。あるいは叔母さんや面倒を見てくれる女の人たち」

「まあ、お母さんはたまに鬱陶しいけど」

「お母さんは好き?」

「うん、まあ好きかな」

「お母さんはきみのことを理解してくれてる?」

「どうなんだろう?お母さんは「あんたのことは私が一番わかってる」みたいなこと言うけど。肝心なところでやっぱりわかってないって思うことはあります。わかってるようなことを言うけど、やっぱりわかってないかなって思うことは多いかも。それが一番鬱陶しい。まあ、諦めてますけど。親子って言ったって結局は他人だし」

「まあそうだよね。他人だし。でも、今きみが言ってるようなことをお母さんに言ったことはある?無限まだら地獄の話」

「まさか!頭おかしいと思われて病院に連れてかれちゃう。昔だって一回病院に連れてかれそうになったし」

「きっと、そういうことなんだろうね。これを言ったら頭おかしいと思われると思っていることをきみは絵にしてるんだろうね。本当は理解してほしいっていうものを抑圧してて、それを放出するために絵を描いているのかもしれない。理解してくれないから諦めてるって思ってるけど、本当は伝えたいんだよ」

「千葉さんって口がうまいから「ああ、そうかもしれない」って思っちゃう。でもそれは私の言葉じゃないですからね」

自分を分析しようとする千葉の言葉に雨宮雪子は窮屈さを感じた。自分は一体理解されたいのだろうか、それともされたくないのだろうか。千葉のいかにも的を得たような言葉がより一層自分をわからなくさせる。

ただなにかを伝えたいと思っているということは間違っていないように思えた。いったい何を、誰に、伝えたいのだろうか。千葉の言葉が頭に残る。

「ごめんね、僕は人の作品に解釈を与えて、そして売っていくのが商売なんだ。解釈、要するに僕がきみの絵を見て勝手に想像したことをそれっぽく話してるだけなんだ。もしかしたら今の話だって僕自身のことなのかもしれない。やっぱり自分の作品を批評されるのは嫌い?」

「あんまり気持ちのいいものではないです。さっきの話じゃないけど「あなたに私のなにがわかるっていうのよ」って思っちゃう」

「でも結局アートの世界ってそういうものなんだよ。きみはただ好きな絵を描いてるだけで満足できる人なのかもしれないけど、それを世の中に広めていくためにはどうしても解釈が必要になる。この絵は作家のなになにを表現している、この構図はこれこれからの引用だって具合にね。そうやって一つの絵に概念が付与される。作家はその概念を表す存在とみなされ、その概念が時代に適合していたり、あるいは時代のカウンターになったりすると作家はその時代のアイコンとなる。さっきの時間の話じゃないけど、アートの歴史という文脈があって、次々と現れる作家は作品を通してその文脈に自分の概念を繋ぎ合わせていく。それがきみのいるアートの世界だ」

暖まってきた室内のせいか、千葉に分析された恥ずかしさからか、雨宮雪子は自分の顔が火照っていくのを感じる。また窓が開いてくれればいいのに、雨宮雪子はそう考えながらちらりと窓に視線を投げる。

あいにく窓は固く閉ざされており、暖気と寒気を隔てている。雨粒が水玉模様をつくり、それはときおり引力に引きずられ窓を流れていく。

「窓よ、開け!」

雨宮雪子は頭の中でそう念じる。しかし窓はピクリともせず、水玉模様を作り続ける。火照った頭が千葉の言葉を反芻する。

私の居る場所、アートという世界。

冷めたコーヒーを啜ると苦みだけが舌を刺激した。

「個展を開くにあたって『世代』みたいな作品をもう少し作ってくれないかな?」

『世代』みたいな作品?

千葉の声が遠くに聞こえはじめる。

『世代』みたいな作品ってどう描くんだっけ?あーあつい。

「春までだけどできそう?」

木霊のような千葉の声に雨宮雪子は大きく頷く。そしてマフラーを握りしめる。

「良かった。個展はきっと成功するよ。間違いない」

ふわふわ、もふもふ。意識は視覚や聴覚から、触覚へと移行する。ふわふわ、もふもふ、あったかい。眠たい。布団に入りたい。ああ、そういえば頭痛がしてたんだっけ。だめだ、寝ないとだめだ。

「今まではどちらかというとカルト的な扱いの作家だったけど、今度の個展できみはもう一つ上のステージに昇ることになると思う。大丈夫、売り方は僕に任せてほしい。雨宮雪子という作家がどういった天才を秘めているか僕が徹底的に宣伝する。学校に提出する課題や趣味の延長じゃなくて、プロのアーティストになるんだよ」

柔らかくて、あったかくて、懐かしい。布団、子供の頃のタオルケット。水玉。声。だれかの声。直樹。好き。あったかいもの。お母さん。光。まぶしい。ここはまぶしい。声。だれかの声。

「大丈夫。きみはどんどん大きくなれると思う。まずは日本、次は世界。より大きな舞台に向かっていってほしい。そのために自分の作品についてもっと知ってほしい。自分が描いているものは何なのか、どこから生まれてきたのか、そういったことを自分自身で理解してほしい」

声。だれかの声。眠い。まぶしい。ふわふわ、もふもふ。会いたい。眠たい。窓よ、開け!声。だれかの声。作品。雨、雨。冬の雨。窓。開け。水玉、水玉、雨宮雪子、雨、あめ、声、こえ、あ、め、あ、え、・・・・。

「どうだろう、できそう?って、あれ、雪子ちゃん?雪子ちゃん?」

冬の雨は雨脚を強くする。窓を叩く音は徐々に大きくなる。千葉の声が止んだ室内は雨の音によって占められていた。

雨宮雪子は雨の音の中で静かに眠る。お気に入りのマフラーをしっかりと握りしめながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?