【長編小説】父の手紙と夏休み 13

自転車を滑らせるようにして図書館の門をくぐる。夏休みのせいなのか自転車置き場はどこもいっぱいだった。

やっと置き場を見つけて自転車を置くと汗がどっと噴き出してきた。ハンドタオルで額の汗を拭きながら図書館の中に入る。冷房が火照った身体を冷やしてくれる。ハンドタオルで顔を仰ぎながら辺りをぶらつく。自習スペースは人がいっぱいで座れる場所はなさそうだった。奈々子と同じ受験を控えた学生が黙々と勉強をしている。参考書を開き、ノートに文字や数字を書き込んでいく。

私も受験生なんだよなー、心に沸いた微かな罪悪感はすぐに消え去り、自分は受験勉強などしている暇などないのだという優越感へ変わった。可哀そうに、そうやってお勉強ばかりしてなさい、奈々子は自習スペースから少し離れた椅子に腰を掛けた。

それは本棚と本棚の間にある小さな椅子で、部屋中に置かれている本棚と比べて随分謙虚な佇まいをしていた。その等間隔に置かれた椅子にはお年寄りがぽつぽつと座っており、お年寄りは本を読んだり新聞を読んだり眠っていたりしていた。

奈々子はしばらくの間、そんな光景をぼんやり眺めていた。奈々子のちょうど向かいにある椅子にはベージュのスラックスを穿き、茶色いシャツを着たお爺さんが座っていた。部屋の中でも帽子をとらず、本を必死に読んでいた。目が悪いのかときおり虫眼鏡をとりだし、それを本の前で前後に動かしている。あんなに目が悪くなるような年になってまで本を読むなんてなんて偉いんだろう、素直に関心したあとすぐに自分の使命を思い出し、ノートを広げる。まずは・・・

1.父の病気について調べる

奈々子は医学・薬学分野の本が並べられている本棚に行き、「統合失調症」と書かれた本を何冊か手に取り椅子に戻った。

膝の上に重ねられた本の重みを感じながら、一番上の本を手に取る。

『統合失調症の有為変転』中井久夫 みすず書房。

ページを開き、目次を眺める。難しそうな文字の群れに心がひるんだ。

Ⅰ 統合失調症の有為変転。

少し黄色がかった紙に印字されている小さな文字を必死に読む。表現や文体がなかなか身体に馴染まず、なにを言っているのかさっぱりわからなかった。患者さんのエピソードらしきものが書かれているのがわかったが、そもそも統合失調症がどんな病気かわからない奈々子にとってはちんぷんかんぷんだった。

あきらめて本を膝の上に戻す。そして二番目に重ねられている本を取り出す。

『よくわかる統合失調症 ねばり強い治療で、回復と自立をめざす』主婦の友社。

パラパラとページを捲り中を確認するとカラーのイラストが多く、これなら自分でも理解できるだろうと奈々子は胸をなでおろした。かわいい動物たちのイラストに見送られページを捲るとそこにはこう書かれていた。

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はじめに

統合失調症は、かつては「精神分裂病」と呼ばれていました。しかし、この病名は患者の人格を否定するものだとして、2002年に、「脳の統合機能が一時的に失調する病気」という意味で、現在の統合失調症という病名に変更されました。

しかし、これでこの病気に対する誤解や偏見が払拭され、正しく理解されるようになったかというと、残念ながら、いまだ道なかばといわざるをえません。

身内の病気を疑いながらも、精神科を受診できずにいる、あるいは、保健所などの相談機関に行くことに踏ん切りがつかないでいる家族も少なくありません。また治療をはじめても、病気であることを隠しながら生活している家族や患者さんも多いというのが実情です。

統合失調症は、かつていわれたような、「人格の荒廃に至る」特殊な病気では決してなく、100人に1人はなる可能性のある、身近な病気であるともいえるのです。また、親の育て方や遺伝のために起こるわけではないことは、医学的に実証されています。

このところ、統合失調症は軽症化の傾向にあります。また、抗精神病薬の開発は目覚ましく、リハビリテーションの方法も進んでいます。これらを組みあわせることで、十分に回復が望める病気なのです。急性期こそ病院で入院治療を行う必要がある場合もありますが、多くの患者さんは地域で暮らしながら療養しています。地域での生活を支える福祉制度もととのいつつあります。

しかし、せっかくよい薬があるのに、服用を拒んだり無理をしたりすれば、当然のことながら病気はよくなりません。私は、統合失調症はこれまでいわれてきたような重い病気では決してないと考えています。ただ、正しくこの病気のことを理解し、正しい療養を根気強くつづけていくことが、ときとしてむずかしい病気であることは確かです。

統合失調症の治療には、本人の努力ももちろん大切ですが、家族の協力も欠かせません。とはいえ、過度に神経質になったり、犠牲的になったりする必要はありません。家族に求められるのは、何も特別なことではなく、あせらず冷静に、そしてあたたかく患者さんを見守っていくことです。

本書では、自宅療養をつづける患者さんや家族が、どうしたら困難を乗り越えることができるか、そのための具体的な方策についてわかりやすく解説しました。本書が、これからの療養生活に役に立つガイドとなれば幸いです。

  2011年2月

東洋大学ライフデザイン学部教授
白石 弘美

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奈々子の中にあった「統合失調症」という言葉に対して抱いていた漠然とした恐怖はこの文章によって少し和らいだ。全ての人が『直子』のように死を選ばざるを得ないような状態に追い込まれるわけではないというだけで心が軽くなった。

お父さんだって今は別に普通だしね、奈々子はバックからノートと筆記用具を取出し、必要な個所をメモする準備をした。

『精神分裂病』
『100人に1人』
『抗精神病薬』
『リハビリテーション』

机がないので膝に置いた本の上にノートを広げてそこにシャーペンで文字を書く。不安定な膝の上から本がこぼれる。

「んー、もうっ」

奈々子は荷物を持ち上げ自習スペースに空き席がないか探しにでかけた。自習スペースは相変わらず混雑していたがちょうど一つだけ空いている席があった。奈々子はそこに座り本とノートを机に広げた。易しい言葉で書かれた文章と柔らかいイラストのおかげかその本の内容はすんなりと頭に入っていった。少しずつ読み進め、必要な個所はノートにメモをとる。

『もろさ(ぜい弱性)』→心理的、社会的、身体的ストレス

『神経伝達物質のアンバランス』ドーパミン→フィルター機能の低下→幻覚、不眠など。セロトニンも?

『妄想』→世の中の全てのことを自分と関連づける→ねらわれてる、テレビ新聞に言われている、悪口を言われている←本人は現実のことだと思っている

『幻覚』幻嗅、幻味、幻視、【幻聴】←「声」が聞こえる(父の手紙にあったはず?)
 
奈々子が黙々とノートに文字を走らせる様子を隣の受験生らしき男子がちらちらと覗き込む。受験には関係ない本に視線を移すと不思議そうに首をかしげ、また自分の勉強に戻っていった。医学部の学生にみえてるかな、奈々子はそんな優越感を胸に抱きながら本を読み、メモをとった。

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