【長編小説】父を燃やす 3-6

真治はアルバイトで貯めた金をつかって携帯電話を買った。それは学校からアルバイト先や家に連絡するのに大いに役に立った。

真治がそれを買うことに決めたのはクラスの皆が持っているという同調圧力によってではなくその利便性だった。

担任から急な呼び出しをくらってバイトの時間に遅れるようなときやバイトが長引き家に帰るのが遅くなるようなときは携帯電話の「いつでもどこでも繋がることができる」特性に大いに助けられた。

真治と一緒に携帯電話を買った今村悠太との連絡も以前より容易になった。お互い違う高校で違う授業を受けていても用があればメールでその用件を伝えることができた。

携帯電話を持ったことで真治は自分が新しい環境に組み込まれたような気がした。その環境は今までとは時間と場所の感覚が大きく違っていた。「速さ=道のり÷時間」の環境から「いつでもどこでも」の環境へ。真治は携帯電話を駆使しながらその環境へあっという間に適応していった。

携帯電話は個別の関係を深める作用もあった。真治の持っている携帯電話に憧れた陽菜は自分もほしいと母にせっつき、母はそれを買い与えた。

個別の連絡手段を手に入れた陽菜は今村悠太との関係を真治の知らないところで深めていった。

今までは真治を介してでないと今村悠太と関係することができなかったが、携帯電話という私的な連絡手段のおかげで真治に邪魔されることなく自分の思いを今村悠太に伝えることができた。

真治は今村悠太の様子が以前とは変わってきていることになんとなく気づいたが、それが陽菜との交際が理由であるということまでは認識できなかった。

真治にとって恋愛は想像すらしたことのない未知のものだった。

RE:真治くん、おつかれー。バイトくるときミスド買ってきて。ポンデリングチョコのやつ。二個ね。あと社長と長谷川さんにもなんか買ってきてあげな。よろしく!!
 
画面に映る真理子さんのメールを眺めながら真治は「なんでオレがミスドを買わなきゃいけないんだよ」と一人つぶやいた。

「おい、お前も掃除しろよ」

便器にバケツで水を流しているクラスメイトが携帯電話を見つめる真治に声をかける。真治は「了解です」と手早くメールをうち携帯電話を制服のポケットにしまった。

クラスメイトとともに便器をこすりながら中学の頃の部活動のことを思った。上下関係が身体に染みついている自分が疎ましかった。

ミスタードーナツの箱を手に提げながら「秋幸苑」に入ると真理子さんは両手を広げ待ちかねていたことを大げさに表現した。

「ミスド、ミスド、たまに食べたくなるんだよね」

真理子さんは子供のように身体を左右にゆすりながら真治の手からミスタードーナツの箱を受け取った。

「真理子さん、お金」

真治がそう言って手を差し出すとポンデリングをくわえた真理子さんが「おごりでしょ?」と笑った。厨房にいる長谷川さんが「おい、高校生にたかるなよ。かわいそうだろ」と真治をかばう。

真治がどうしてよいかわからず手を差し出したままでいると真理子さんはその手に千円札を二枚おいた。

「こんなにかかってないですよ」

「いいの。お駄賃。とっときなさい」

真理子さんは口をもぐもぐさせながら真治の額を指ではじいた。微かな痛みを感じたが、それより真理子さんの態度が心を高揚させた。それが変に気恥ずかしくて真治は顔をこわばらせた。

「なに?怒った?」

「いえ。じゃなくて、真理子さん、学校にいるときにメールしてこないでくださいよ。先生に見つかったら携帯没収ですよ」

「まあまあ、いいじゃない。没収されたらわたしが先生に言ってあげるから」

「なんて?」

「先生、携帯じゃなくてわたしと繋がらない?」

「えっ?」

「大丈夫、わたし、いつでもバリ3だからっ」

真理子さんはそう言うと手を叩いて笑いだした。真治はその言葉の意味がよくわからず笑い転げる真理子さんをぽかんと眺めていた。厨房から「純粋な高校生をからかうな」と長谷川さんの笑いを含んだ声が聞こえる。真治はまた顔をむすっとさせた。

「ごめんごめん、今度から気を付けるよ」

真理子さんは笑いを抑え真治の肩を叩く。その手は暖かく柔らかかった。

授業中に送られてくることはなくなったが、それでも真理子さんからは頻繁にメールがきた。ほとんどが他愛のないものだったが真治はその言葉だけのやりとりに快楽を感じた。

だれにも見られることのない異性との個人的な繋がり、それは真治が今まで体験したことのないものであり、真治の記憶に蓄積されていないものだった。記憶にないものであれば再現することはできず、行動の規範とするどんなものも真治にはなかった。

真治はメールのやりとりという言葉の交流の快楽に否応なく飲み込まれていった。それを恋という言葉に置き換え自分の状態を外から眺めるには真治の経験は全く不足していた。

真治は真理子さんを思うと湧き出てくる淡い煩悶を快楽とともに感受していった。

自然と携帯電話を気にするようになり、真理子さんからメールがこないと小さな不安に襲われ、以前に自分が送った真理子さんへのメールを何度も見返した。

そしてアルバイト先で真理子さんと一緒になると、そっけない顔をしながら影からこそこそとその横顔を見つめ記憶の中に保存していった。

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