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【短編小説】相良

 結局、氏神様にお詣りできたのは、大学4年の夏休みだった。地方の高校からまぐれで入れた医学部は、講義全てで自分の学力のなさが痛感させられた。1年は、授業準備とその理解、テストやレポートに明け暮れた。
 長い石段を登りなら、左手を見る。遠く見渡せていた景色は、今ではマンションの壁に遮られている。登り切ると、狭い境内に出る。正面に本殿。右に回り込むと、小さいながら舞殿があって、その奥が社務所だ。
 社殿の周りは残された木立に囲まれて、外の景色を見せないようにしている。唯一、木立が切れて、展望が開けていた手水場のあたりは、目隠しに掲示板が立っていた。
 掲示板には、厄年の一覧や今年の祭事の予定などが貼ってある。とうの昔に夏祭りは済んでいた。
「朝早うから、珍しいの」
後ろから声をかけられた。
ヨッちゃんが立っていた。
「あ、おはようございます」
「なんじゃ、夏休みか」
「はい。一週間ほど、こっちにおります」
「そうか」
ヨッちゃんは喋りながら、がんぜき(熊手)で、境内に散った枯葉を集めていく。
土は集めず、枯葉だけを寄せる。
 ヨッちゃんの横には小さめのリヤカーがあって、四角いプラスチックの青かごが載せてある。ヨッちゃんはリヤカーに挿してあったもう一本のがんぜきを抜き取る。そうして、二本のがんぜきで、屈むことなく枯葉を挟み込み、かごに入れていく。
「器用なもんですね」
「なんがじゃ?」
「いや、器用にがんぜき使うなって思うて」
へへっと笑って、ヨッちゃんはそれには答えなかった。
ヨッちゃんは、襟に神社名だけが入った無地の白半被を着ていた。
「今日は、ヨッちゃんに会おうと思うて。ご無沙汰してました」
「ああ、色々あったからの」
「ええ、まあ」
 祖父は大学2年の春に亡くなった。私が医者を目指したのは、それが祖父の願いだったからだ。父は医師の道を選ばなかった。診療所を開いていた祖父は、どうしても私に跡を継がせたかったらしい。私の高校時代には既に体調が思わしくなく、診療所は閉めていた。そして大学2年の春、祖父は亡くなった。
 そんなことがバタバタあって、大学の勉強も忙しく、神社のことはすっかり忘れていた。今回の夏の帰省で久々に祖母とゆっくり話していて、ヨッちゃんの話題になった。ずいぶん足を向けてないと思い、今朝は早起きして神社を訪ねた。
「お前、今、何年じゃ?」
「大学四年です」
「卒業か?」
「いいえ。医学部は6年です。そのあと医師の国家試験通っても、研修医があと2年。まだまだ先は長いです」
「全部終わったら、帰ってくるんか」
「どうでしょ。もう診療所も閉めてしもうたし。おいおい考えます」
「そうか」
「駅の方に、内科の新しい病院できちょったじゃないですか。もう無理してここで開業せんでもええかって」
「そうか」
リヤカーを引っ張って、ヨッちゃんが舞殿の方へ行く。なんとなくそれについていく。
「そういえば、あの神楽の子」
「翔子ちゃんか」
「まだ、舞ってるんですか」
「ずっと。毎朝。四つん時からずっとな。今朝も、ほれ、始まる」
本殿を回り込むと、別棟で小さな舞台がある。翔子ちゃんは、既に座っていた。
側に母親が控えている。
「ずっとですか。偉いもんですね。ええと、何年生ですか」
「小学校5年生かな」
「へえ、ちょっと見学させてもらいます」
リヤカーを止めて、ヨッちゃんも舞台を眺める。

 シャン。と鈴が鳴る。神楽を見るのはいつ以来だろう。私服の赤いスカートのままで、翔子ちゃんは舞う。四つの翔子ちゃんが、そのまますっーと大きくなったように。その舞いぶりは、記憶の中のものと少しも変わらなかった。
「見事ですねえ。覚えてる舞いかたと同んなじです」
「ああ、変わらんことは大事じゃ」
ヨッちゃんの横顔を見る。この人も変わらない。そう思った。

 翔子ちゃんが学校に行ってから、社務所でお茶をご馳走になる。お母さんは、ゆっくりしてって、と言い奥に引っ込む。家の仕事があるんだろう。ヨッちゃんと二人でお茶を飲む。
「相良くんは、何の医者になるんかの」
「研修医になって、いろいろ回ってみんとまだ決まらんですが、今んとこ内科医希望です」
「ほうか。爺さんと一緒か」
「まあ」
「医者か。ええのう」
「ええですか?」
「そりゃ、ええじゃろ。病気治して。感謝されて。そりゃええじゃろ」
そう言ってお茶を飲む。神社で見るヨッちゃんは、いつも穏やかな顔をしている。
「ヨッちゃん。訊いてもええですか」
「なん?」
「今でも、喧嘩やりますか」
「なんじゃ?」
「いや、強かったから。前、うちの婆さんら、助けてもらったことありましたよね。公園で」
「ああ、あったの」
「あん時は有難うございました」
「なに、今更」
「いや、あん時、お礼も言えんで」
「なんの。もうええて」
照れたように、急須を取る。お茶を注ぎ足してもらって、また訊いてみる。
「公園ん時は相手が学生じゃったからアレですけど、大人相手だと怖くないんですか。伊三郎さんの時とか」
「怖い?」
「だって殴られたら痛いじゃないですか。もしかして、痛くないんですか」
「あほ。殴られたら痛いわ」
「殴られるの怖いとかないんですか」
「まあ、ないの。ちゅうか、なかったの」
「へえ。何でですか」
ヨッちゃんは黙った。少し寂しげな表情になる。
「僕は痛かったです」
「ほ。相良くんでも喧嘩はするか」
「ええまあ。ずっと前、中学ん時ですけどーー」

    ※

 相良が殴られたのは月曜日のことだった。金曜日には、卒業式がある。このクラスで過ごせるのも、あと一週間を切っていた。
 相良のやつ、最後までやってくれるわ。
 なんで相良を殴ったやつではなく、殴られた相良が非難されるかというと、それは相良だからだ。相良なら仕方ない。みんなそう思っていた。
 弱いものを見下す。あなどる。あざ笑う。それが相良だった。
 弱いとは、力が弱いことだけを指すのではない。

割り算を間違える。
漢字が読めない。
手先が不器用。
泳げない。
行動が遅い。
太っている。
背が低い。
人参が食えない。
ぜんそく持ち。
家が古い。
給食費が払えない。
片親だ。
親父が土木作業員。
制服が埃っぽい。
子供部屋がない。
靴下に穴があいている。
自転車を持ってない。
どもる。
足が遅い。
飼っている犬が汚い。
笛が吹けない。
話がつまらない。
グローブを持ってない。
親が金を借りにくる。
小遣いがない。
弁当が貧相。
お下がりばかり着てくる。

 そうだ。ほぼクラス全員が、相良の「弱い」に当てはまる。相良は、弱い奴には容赦ない。つまり、今日はこいつと決めた人間を、相良は容赦せずいびる。

 机を蹴る。
 馬鹿と嘲る。
 貧乏人と罵る。
 ボールをぶつける。
 掃除を押し付ける。
 消しカスを投げてくる。
 鉛筆の芯を折る。
 嘘を先生に言いつける。
 親を馬鹿にする。
 酷い時には、殴る蹴る。

 嫌がらせを受けなかったものは、クラスにほぼいない。それを避ける一番簡単な方法は、相良の子分になることだ。子分になれば、いろんなものを奢ってもらえる。しかし、その代償として、嫌いでもない奴をいじめたり殴ったりしなければならなくなる。相良は自分の手は汚さない。

 俺はずるいから、なるべく相良には関わらないし、絡まれても、適当に流す。余りしつこいと、ジロリと睨んでやる。幸い俺には野球部で三年間鍛えた体がある。タイマンなら負けねえ。だが、そうすると、いや冗談とか言って、ニヤニヤしながら相良は離れる。そういう奴だ。
 だから、殴られていい気味だ、と思いはしても同情する奴なんて1人もいない。

「お。どうしたかいや。えらい教室が静かじゃの」

この馬鹿野郎以外には。
「なんかあったんかい」
山本は手近の女子に事情を聞いている。
「そうかい。遂にやられたか。そりゃ、めでたいの」
 相良を殴ったのはタツだった。タツは相良の手下ではない。山本とタツは仲がいい。きっとまだ山本は、誰が殴ったのか聞いてないんだろう。

 今日のターゲットはカナコだった。相良は前からカナコが気に食わなかった。理由なんて特にない。歌となれば、大声で機嫌よく歌うのが気に触るのかもしれない。さっきの式歌の練習でも、カナコは張り切っていた。が、カナコには天然なところがある。相良の嫌味がまるで通じない時がある。さっきもそうだった。
「カナコ。お前、卒業アルバムもらえることになったぞ」
「そうか。嬉しいのー」
で、お終いである。まさに、暖簾に腕押し。
「お前、変とは思わんのか」
「変? 変なんか、じゃ、いらんわ」
これで終いである。そこで相良は狙う相手をタツに変えた。タツとカナコは仲がいい。

 3月の初めにPTAが卒業アルバムの代金を集めた。アルバムは卒業式当日もらう。カナコは、そんなん別にいらんわ、と言うて申し込みをせんかった。高校に行かず就職を選んだカナコではあるが、勤め人になるなら、服や靴などそれなりに必要なものはある。それを揃えてくれる親に気をつかったんだろう。見たけりゃタツに見せてもらうけえ、とカナコは笑っていた。
「カナコ、アルバム代、払うてなかろうがや」
相良はタツの机に座った。うるさそうに、タツが言う。
「お前に関係なかろう」
相良はひひっと笑って、顔を近づける。
「困るのう、貧乏人は」
「何じゃ。お前に関係あるんか。買おうと買うまいとカナコの自由じゃ」
「相変わらず馬鹿は常識を知らん」
「なんじゃと」
椅子から立ち上がったタツに目を剥いて相良が言う。
「アルバムはもうできちょるんじゃ、卒業生の人数分の」
タツは、わからん、という顔になる。
「カナコは頼んじょらんぞ」
「じゃから、あほ言うんじゃ。3月に金集めて3月にアルバムができるか!」
「・・・」
「もう人数分のアルバムはできちょるんじゃ。多分、校長室にあろう。勿論、カナコの分もの」
「・・・そんなん」
「え? なんか、聞こえんのう」
「そんなん、業者の勝手じゃ。頼んでもないもんを作るんが悪い」
「おー、悪いのう。そりゃ、業者よりPTA会長さんが悪いわ。頼んでもねえもんの分を注文したんじゃからの」
「・・・そうじゃ」とタツが呟く。
「しかし会長さんも、気の毒じゃ。まさか卒業アルバム、買わん奴がおるとはの。会長さん、今年がはじめての3年生で、よう分からんかったんじゃろう。多分、去年のうちに冊数発注したんじゃろうな。卒業式に間に合わなんだら、大事じゃけえの。しかし、まさか、ここにきて、買わんやつが出ようとはなぁ。会長さんの失態じゃ。悪いんは、会長さんじゃ」
「・・・」
相良がタツの肩を叩いた。
「心配すな」
そう言って、ニッコリする。
「卒業式はカナコもアルバム、もろうて帰りゃあええ」
「え?」
「PTAの会計な、うちの母ちゃんがやりよる。足りん分、出したちゅうことじゃ」
相良の家は、親父は市役所の役人だが、爺さんは開業医だ。金はある。
「なんで」
「作ってもろうて、金払わん訳にはいかん。じゃからちゅうて、3年、無償でPTAの会長させといて、最後に金まで余計に払わすんじゃ、会長さん、あんまり気の毒じゃ。ここは、今年の会計担当のうちの母ちゃんがひと肌脱いだちうわけじゃ」
実際は、出入りの税理士に丸投げのくせして、会計会計、よう言うわ。
「金出したのは、お前の母ちゃんじゃろが。カナコがもらう訳にはいかんじゃろ」
「じゃあ、俺が二冊持って帰れち言うんか。二冊、いらんわ。いらんいうて、学校置いてくか。担任が処理に難儀するのう。まさか捨てることもできんしのー。困ったのう、カナコにもろうてもらわんにゃ、金、ドブに捨てるようじゃ。こりゃ、困ったことになるのう。
「カナコに言わんといけんわ。カナコ、悪いけどのう、お前の分のアルバム代、家の母ちゃんが払うたんじゃ。まさか、頼まんやつはおらんと、会長さんが人数分、先に注文してしもうたからじゃ。金はいらんけえ、アルバム、もろうてくれんか。この通りじゃ。もろうてくれんかの、お前、金も払わんと、丸儲けじゃないか。ええのう、お前は。貧乏人は。いや、うちの母ちゃんが悪いわ、悪かったわ、ちゅうてか?」
「それ、カナコに言う気か」
「おう。さっき言うたわ」
タツは相良の顔面を殴った。ひっくり返った相良を見て、手下どもがタツに殺到する。
「お前ら! がたがた、やかましいわい!」
思わず大声が出た。手下どもが動きを止めて、声の方を見る。大声を出したのは俺ではない。幸子だった。
「大の男が不甲斐ない。いつまで相良の金魚のフンじゃい。恥ずかしいと思わんか!」
相良と手下どもは、幸子に対峙する。幸子も引かない。
「お前ら、別々の高校、行くんと違うんかい。男一匹、高校、乗り込むんと違うんか!」
いや、幸子、喧嘩じゃない、入学やぞ。
「ほんま情けない。金欲しかったらアルバイトせい! それともなにか高校行っても相良に奢られてヘコヘコついて回るんか!」
手下どもの目が泳ぐ。
「まあた、お前からかい!」
担任が顔を覗かせ、関係者、相良とタツ、幸子、手下どもを連れて行く。誰か職員室に走ったらしい。
「どうしたんか」
カナコが目をまんまるにしておるときに、山本が教室に戻ってきた。

「なにー! サッちゃんが?! 相良のくそたわけ! 俺が目にもの見せちゃるわい」
案の定、幸子とタツが絡んでると聞いて、山本は逆上する。
「まあ、待っちゃれ。今、先生と話しよるけえ」
「井田、てめえ、側で聞いちょって止めれんかったんか」
「タツが殴ったのは電光石火じゃったからの。あれは止めれん。サッちゃんは守る気じゃったぞ」
「抜かせ。後でなら何とでも言えるわ。それにサッちゃんとは何ごとか。木村さんち言え!」
どこにこだわっとるんか。この男は。
「まあ、ええから待てっちや」
俺たちが言い争ってる所へカナコがやってくる。
「タツ、どないしたん」
「じゃから、お前のせいじゃ」
山本が八つ当たりする。
「なんで、なんであたしのせいかのー」
全くどいつもこいつも。仕方ないんで、順を追って話した。

「そうか。そりゃ、あたしが悪いのー」
カナコはちょっと神妙になる。
「いや、カナコは悪うない。相良の母ちゃんが余計なこと、しくさるからじゃ」
と山本はまだ収まらない。
「ちゅうても、あたしが卒業アルバム、頼んどきゃ、騒ぎにならんと済んだんじゃろ」
「まあ、それはそうじゃが。それぞれ家庭の事情があろう。まあ、悪いちゅうたら会長さんが一番悪いがの」
「そんな、よかれと思うてしたことじゃ、会長さん責めるのも、なんか悪いのー」
「じゃからって」
「したら、あたしが頭下げれば済むんかの。相良くん、卒業アルバムのこと、ありがとう、ちゅうて」
それもなんだか違う気がする。やっぱり、すぐに山本が噛み付く。
「なんで、カナコが謝るんじゃ。カナコはひとつも悪うないじゃろうが」
「あたしは悪うないんか」
「悪うない」
キッパリと山本が言う。
「じゃあ、どうすればええんじゃろう」
途方に暮れるカナコであった。

暫くして、連中が帰ってきた。山本は早速、幸子の所へ行く。カナコはタツの所へ。俺は関係ないが、カナコに引っ張られてタツの所へ行った。
「タツ、すまんかったのー」
「いや、カナコが謝ることじゃない」
「で、どうなったん」
「あんな、事情聞いて、先生がカナコんとこに電話した。母ちゃんが出て、卒業アルバムの金、払うそうじゃ」
「そんな、無理に払わすのも筋が違うけどな」
言わんでええことじゃが、つい口に出た。
「カナコ」とタツがカナコに向き合う。「お前、卒業アルバムの集金のこと、親に言うてないんじゃってな」
「おー、いらん思うてプリント見せちょらん」
「母ちゃん、恐縮しちょったってど。そりゃ、ぜひ買わせてもらいますちゅうて。子供の卒業アルバム、買わん親がどこにおりますか。あの子が変な気を回して、すまんことでした、ちゅうてな」
「すぐ電話したんか」
「ああ、事情聞いてすぐじゃ。担任が言いおった。金絡みのことは、子供じゃらちがあかん言うてな」
「そおかー、出してくれるかあー。そりゃ、嬉しいのう」
カナコは心底嬉しそうな顔をした。

    ※

「嫌な奴でしょう、俺って」
ずっと持っていた湯呑みを置く。中は空だ。もう温もりもない。
「はあ、なかなか嫌な奴じゃの」ヨッちゃんは笑って応じてくれる。「それがどうして、こんな好青年になったんか。俺はそっちに興味があるわ」
「そうですよね。あと一週間で卒業式。自分のせいとはいえ、なかなかしんどかったです」
「まあ、そうじゃろうの」
「おまけに、卒業アルバムの発注は、母ちゃんの担当でした。自分がよう確認せんで、どうせ全員頼むじゃろうとたかを括って発注したんです。いま、考えりゃ一冊くらい、来年も発注しますからぐらい言ったら、業者もマケてくれるでしょうに。母ちゃんは、自分のミスを金払って穴埋めして、なかったことにしたかったらしいです。でも、タダで金払うのはけたくそ悪い。それでつい、会長さんのせいにして家で愚痴った。それをまた、馬鹿な俺が真に受けて。と、まあ、恥ずかしい話ですが」
「そりゃ、マズいことだらけじゃの」
「はい。俺は、まあ、いくらなんでも、しんどくなって、学校休みました。もう、卒業式も出んつもりで」
「まぁ、そうなるか。それで、式は出なかったんか」
「いえ、出たんです」
「ほう。どうして」

   ※

「じゃから、何でワシまで行かねばならんのじゃ」幸子は怖い目をしてワシを睨む。「じゃから、わしはその場に全くおらなんだんじゃぞ。なんも知らんもんが、なんで相良に会わねばならん」
「それはの」
「お前があたしに惚れちょるからじゃ」
「な、なに言いよるんか」
「惚れちょらんとは、言わさんぞ」
「そそ、そ、そりゃあの」
「惚れた女が、ここ一番決めよう言うんじゃ。お前は、それでもついてこん言うんか。見そこのうたわ」
「いや。ん。行っちゃろう」
 水曜日の放課後、わしは幸子に連れられて相良の家に行った。医院の扉とは別にドアがある。見上げると二階屋で、鉄筋コンクリート。ドアの呼び鈴を鳴らすと、婆さんが出てきた。見覚えがある。カナコんとこの清子婆さんをよく訪ねてくる。なら、話が早い。
「こんにちは。海斗くんと同じクラスの木村いうもんです」
「山本です」
婆さんは、まじまじとわしの顔を見て、
「なんか見覚えがあるの」
と言う。
「カナコん家の近所に住んじょりますけえ、お婆さんとようお会いします」
「ああ、清子さんとこのご近所か。それで」一気に顔が柔和になる。「海斗のことかい」
「そうです」
幸子が答えると、途端に渋い顔になる。
「お婆さん、ご存知ですか」
「学校から電話来た件じゃろ。知っちょる。まあ、上がり。爺さんとお母さんは病院じゃけえ、私が聞こう」
「あの、お婆さんじゃなくて、海斗くんに・・・」
「分かっちょる。じゃが、事情がわからん。電話取ったのはお母さんじゃし、海斗はなんも言わんしの」
「海斗くんのお怪我は大丈夫でしたか」
「ああ、あんなもん鼻くそじゃ」
居間に通される。わしは初めてソファーに座った。
「こりゃ、よう沈むの」
浮かれて幸子に囁くと、黙っちょれ!貧乏人、と返された。なにおう電器屋、と喉まで出かかったが、緊張している幸子の横顔を見ると、言葉を飲んだ。
紅茶が出てきた。
ふうふう冷ましながら飲んでる間に、幸子があらましを喋った。
「そうですか。だいたい予想通りじゃ。海斗がすまんことしたの。カナコちゃんにも謝らんといけんの」
思い詰めたように婆さんが言う。わしは引き取って、努めて明るく言った。
「なんの、婆さん。それには及ばん。カナコも卒業アルバム買うてもらえて、喜んどるぐらいじゃ」
「そうか。じゃが、今度会うたら、まあ、ひと言いうとこう」
「そうじゃの。わざわざその事で行くこたぁないが、それで婆さんの気がすむんなら、そうしたらええ」
鷹揚に言うたら、幸子に腿をつねられた。
「痛。なにしよるん!」
「なんの役にもたたなんだやつが、よう言うわ」
ええ?!っと反論しようとしたが、わしには目もくれず、真面目な顔で幸子は婆さんに向き直っていた。
「お婆さん。海斗くんに会わせてもらえませんか」
「会うてもろうても、あれはもう学校に行きゃあせんじゃろ。理屈言うて、謝りもせんじゃろ。私らが甘やかして育てたばっかりに、難儀なことじゃ」
「ご両親はなんて」
「ほったらかしじゃの。勉強さえしちょりゃええんじゃろ」
「会わせてください」
幸子がちょっと驚くような、差し迫ったもの言いをする。
「そりゃ構わんが、会うかどうかわからんぞ」
と天井を見る。
「鍵でもかけて、出てこんのですか」
「海斗の部屋は襖部屋じゃ」
幸子は立ち上がる。
「二階ですね。ご馳走様。行くよ」
と、わしを促した。

階段を上りしな訊いてみる。
「相良は謝らんぞ」
「誰が謝らせるちゅうた」
「なら、なんが目的か」
「卒業式、来させるんじゃ」
「は。別にどうでも良かろう、あんなやつ」
先を上る幸子が急に止まるんで、危うくお尻に顔をぶつけそうになった。
「え?」と顔をあげると、憤怒の表情の幸子がいた。
「山本!見そこのうたわ。婚約解消じゃ!」
婚約? 婚約いつした? え? と思う間に幸子は階段を上がり切り、勢いよく襖を開けた。
「相良! 久しぶりじゃの」

「なんじゃお前ら。断りもなくズカズカと」
ベッドに寝転んだままの相良が言う。
「話に来た」穏やかに幸子が答えた。
相良はいつものニヤニヤ笑いをしている。
「ああ悪かった悪かった。俺が悪いわ。これでどうじゃ。気がすんだか」
ありゃ、謝りおる。全く気持ちはこもっとらんが。
「気はすまん。相良、学校に来い」と幸子。
「俺は学校には行かんぞ。お前ら馬鹿の貧乏人どうして仲良く卒業したらええ」
なんじゃ、その言い草は! とわしが前に出ようとするのを幸子が手で制する。相良は追いかけて、
「話はそれだけか。帰れ」
と、向こうむきに寝返りをうった。
「医者になるんか」
幸子が言う。相良は答えない。
「医者になるちて、前、言いよったろう」
相良は動かない。固い背中を見せてるだけだ。
「ほかになりたいもんがないんなら、なったらええよ」
「幸子。お前、なに言いよるん?」
「山本は黙っちょれ」
「あ。そうか」
わしは何のために来たんじゃろうか。
「相良。私は電器屋の娘じゃ。私は見てての、売るばっかりじゃのうて、作る側になりたい思うちょる」
「工場か」
言うてすぐに蹴られた。
「商品開発する側じゃ。新製品を作るんじゃ」
「幸子、お前、んなこと考えよったんか」
「こいつは、山本はの、将来は」
「漫画家じゃ!」
「まあ、なれるとは思えんが、目指すのは大事じゃ」
幸子。言うてええことといけんことが。
「医者になって欲しいんは、爺ちゃんじゃ。それと、自分がなれんかった父ちゃんの願いじゃ。俺の願いじゃない」
背中を向けたままで相良が話し出す。
「今更、俺が漫画家でもなかろう。ジジイとオヤジがそんなに望むんならなっちゃろういの。勉強。しちゃるわい。ただしの、それ以外は好きにさせてもらうわ。俺はしたいようにする」
「それが違うちゅうんじゃ」我慢ならん。とうとう怒鳴ってしもうた。「医者になろうがなるまいが、それはお前の勝手じゃ。人に迷惑かけるな、ちて言うんじゃ。分かったか、このボケナスが!」
幸子の手を押し除けて、前に出る。
相良はゆっくりと、体をこちらに向ける。
「山本は、相変わらず威勢だけええの」
「なんじゃと!」
「お前はええの。漫画家か。まあ、頑張りや」
「お、おう」
言われんでも、頑張るわ。
「俺はな、今更、医者にならんとか、無理じゃ」
「嫌なら、辞めりゃええ」
ふふ、と相良が笑う。
「そんな簡単なもんじゃないんじゃ。ここまで、いろんなこと我慢して生きてきて、今更、医者になるのを辞められるか」
笑わせる。
「抜かせ、相良。お前がいったい何を我慢したちうんじゃ。いつも好き勝手なことばっかりしおって、なにが我慢じゃ?」
「・・・ほうじゃの」
相良は寂しげに笑うた。
すると、後ろから幸子の声がした。
「相良、学校来いよ」
「そうじゃの。みんな揃わんとおもろうない」相良の顔を見たら、わしも幸子に合わせとうなった。
「おもろうないか」相良が訊く。
「そうじゃ、おもろうない。正義の味方ばっかりじゃおもろうないでよ。明智小五郎と小林少年ばっかりじゃ、つまらん。二十面相もでてもらわんとな」
「俺が二十面相か」
「そうじゃ。赤マントがええか」
「二十面相で沢山じゃ」
相良は身を起こしてベッドに座った。
「わざわざ来てもろうて、すまんかったの」
と言った相良が・・・、「幸子、山本」と呼びかけてくる。「来てくれて、ありがとな」
幸子が答えた。
「なんの。あたしらは友達じゃからの」

   米

「三人、高校は別でしたが、時々会って、話をしました。一緒に映画も見たし、海にも行った。
「高校では手下を作るでもなし、人をいじめるでもなし、一生懸命勉強しました。医学部に入るとなると、俺の頭では三年間猛勉強して、それでなれるかなれないか。
「最初、医者は爺さんや親父の夢でした。でも、高校の三年間で変わりました。医者は、俺の夢です」
ヨッちゃんは終いまで聞いて、すぐに感想言うでもなし、うんうんと頷いた。それから
「ええ医者におなり。どうであれ、自分が変わらず目指せるもんがあるのは羨ましいことじゃ」
と言った。
「はい」と俺は返事した。

           了

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