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創作とほほ日記4

では、私を含めてそういう人は、なぜプロット通りに書かないかというと、つまらないからである。
前、中島らもさんのインタビューを読んでたら、こんな文言が出てきた。(文章は正確ではない)。
ーー小説を書く上で、一番つまらんのは清書する時や。
 らもさんは、小説を書く前に、綿密なプロット作りをするそうなのだ。ほんちゃんの小説を書き出す前に、小説はもうできているのである。だから、小説を書くのは、マス目を埋めるという単純な肉体労働と同じで退屈するそうなのだ。
小説を書く前に小説ができている! 一度言ってみたいものである。どこか、「お前はすでに死んでいる」みたいな凄みがあるではないか。ああ、いけない。「北斗の拳」
なんか、最近の若い人はしらないか。
私の場合、単純な肉体労働とまでは言わないが、やっぱりプロットを作り込み過ぎると、書いてて面白くない。だから書いてるうち、自然とプロットから離れていく。登場人物たちが暴れ出す。
 

ずっと前、テレビに天童荒太さんがでていて、小説の登場人物全員のプロフィールを考える、と仰っていた。実際、ノートにビッシリと書いてあった。驚きである。確かに、登場人物ひとりひとりの人物設定をしておかないと、後で矛盾がでる。長編なら尚更である。
しかし、ちょい役の登場人物まで全員のプロフィールを考えるなど、プロットどころの話ではない。でも、長編を書くなら、それが当たり前なんだろう。誠にすごいことであるが、とても私には真似できない。


 逆に、プロットを立てない作家さんもいる。川端康成がそうである。「雪国」は、長編だが、綿密なプロットのもとに書かれたものではない。その時その時の短編の積み重ねが、あのようになったのである。と読んだような気がする。いやあれは純文学だからだ。純文学は、ストーリー性より芸術性を重んじるから、プロットなしで書けるんや、との声が聞こえる。
ホントか。

いや、エンタメ業界にもおいでになる。書きながら考える人が。それも推理小説畑で。それは、先頃お亡くなりになった西村京太郎先生である。本当である。「夏の文学講座」の講演で聞いた。
西村先生の場合は、講演ではなくて、インタビュー形式だった。女性のインタビュアーが「先生はどうやってトリックを思い付かれるんですか」の問いに、「書き出した時は、なんも考えてない」と仰った。驚愕である。推理小説なのに、プロットがない! じゃ、どうやって話を進めるのかというと、「書きながら考える」そうなのである。まぁ、講演のリップサービスという面もあろうかと思うが、それにしても、これは誠に驚愕である。インタビュアーも驚いたらしく、「それで書けちゃうんですか」と訊く。先生笑って「書けちゃうんです。七転八倒の苦しみですがね」とか仰ってた。

勿論、全部の作品がそうではなくて、一部の作品、もしかしたら数作品だけが該当するのかもしれないが、しかしーー。
思うに、そうした作品を書く時、京太郎先生、苦しみながら楽しんでると思う。殺人事件、起こすには起こしたが、どうやって解決すればいい、と探偵さんと一緒に考えてんだと思う。きっとそれが楽しいんでしょう。凄い。ちなみに、私、先生のお作を一冊しか読んだことない。すいません。

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