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中村文則「満員電車」

人が密集すると熱狂と歓喜が生まれる、と昨日書いた。
だが、満員の通勤電車でそれは生まれない。自ら望んで密集するものと強制的に密集させられたものとの差だろう。だから後者では、みんな自分を守るため必要以上に攻撃的になり自己中になり粗暴になる。外の世界で、たとえ戦争が始まっていたとしても。

絵が動かない。ずっと満員の電車の中だ。人々はその中でひどく押され悪態を吐き続ける。事態は一向に好転しない。ただ押され、我慢し、その捌け口のように、悪態をつき続ける。みんな自分のことしか考えてない。不平等だと、座っている人に不満をぶちまける。座っている人は嘘寝を続ける。駅に止まればまた人が入ってくる。

読んでて息苦しい。早く次の場面に移ればいいのに、そう思って読む。なのに、電車は目的地につかない。

この話は何かの寓意なのだろうか。「砂の女」が、当時の社会状況の寓意であったように。ある本で、「砂の女」が社会の寓意と読んで、途端につまらなくなった。何かを伝えたいなら、寓意なんかにせず、直接言えばいい。そう思った。

たとえ戦争が始まっていても、満員電車に乗り込み、今日の会議で怒られることにやきもきすることは何の寓意だろう。
満員電車で咳をして、マスクしろといわれて、冷静に下らない反論を続ける男は何の寓意だろう。
匂いを嗅いだとなじる女に、居直る新型痴漢は何の寓意だろう。
これ以上乗れない電車に乗り込み、座っている人の上や網棚にまで登る人々は何の寓意だろう。

やがて、電車は終点につく。しかし、ホームも満員で、身動きできない。ナイフを持った少年がいる。凶行を阻止するために、主人公はゲームのキャラクターを少年に与える。
これは何の寓意! 何の寓意? いったい何の寓意?!

主人公は過去に一度だけ行きたかった駅の道順をAIに訊く。だが、どうやらそこに行けそうにない。
主人公は行くことを諦める。諦めると何をしていいかわからない。
そうだ、美味しいコーヒーを飲みたい。美味しいケーキも。
それなら、喫茶店は今空いています、とAIは答える。

小説はここで終わる。これは何を意味するのか。
社会から降りろというのだろうか。会社に行くことは、強制のように見えて、実は自分で好き好んでその苦海に向かっている。それに気づけ、と言いたいのだろうか。
もっと大きな現状、戦争に目を向けることなく、そこへの怒りはなく、隣の人間への度し難い憎悪を持つのが現代だ、と言いたいのだろうか。
いったいそう書いてしまう作者はどの立ち位置で、この話を語っているんだろう。作者はその人たちと違うのだろうか。それがとても気になった。 

小説を書くときの作者は特権的である。登場人物を生かすも殺すも自由自在だ。
別にこの小説の作者が、その特権的立場で、高みに立って、物語を書いていると批判したいわけではない。多かれ少なかれ全ての小説は、そうして書かれる、と言いたいだけだ。短編なので、作者の立ち位置までは読み取れない。作者は、状況を寓意的にに語り、その判断を読者にあずけるところで、小説は終わっている。

主張があるならそのまま語ればいい。たが、それでは誰も耳を傾けない。だいたい言いたいことは予想がつくから。どこかで誰かが言っているのを聞いたことがあるから。

では、なぜ小説にするのか。自分の主張に説得力を持たせるためか。なら、小説は"為にするもの"となる。
かつてのプロ文のように。小説が革命思想に奉仕したように。

寓意は難しい。読者は小説を寓意と読んだ時、そこに小説以上の主張を読み取る。小説がある主張を納得させるための奉仕をしているように見えて鼻白らむ。

では、小説に主張はないのか。それはテーマと置き換えてもいい。
かつて「テーマ小説」と言われるものがあった。菊池寛の作品群だ。明確な主張を意図して書いた小説だ。なるほど読んで、作者の言いたいことはよくわかる。だが、出てくる人間が、ある役割を振られた役者のように見える。

うむむ。考えることに疲れた。それに、長く書きすぎた。
そろそろやめよう。まとまりのない文章に今回もなった。続きは、どこかでまた考えてみようと思う。

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