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【S45】母帰る

 見たのは三度目だった。
台風で、山田川の堤防が崩れて、後少しで決壊しそうになった。それをコンクリートで固める護岸工事があって、今、川に以前の面影はもう残っていない。次には老朽化した橋を架け替えると、もっぱらの噂だった。
 それが証拠に、護岸工事で集まってきた労務者たちの多くは、近くの安アパートを引き払わず住み続けている。
 ワシはこの橋に愛着があった。この春、学校の宿題で、幸子と橋の由来について調べたことがあったからだ。このことで、ワシと幸子の距離は一段と縮まった。ワシはその時、幸子に惚れていると、告白までさせられた。
 そんな思い出深い橋なんで、そばを通りかかった時は、なんとなく見てしまう。
そこに、女の人が立っていた。
 実は女の人を今朝も見ていた。登校時間、中学の校門の斜め向かいの塀際に立って、こっちを見ていた。誰かを探しているふうでもあった。歳はうちの母親くらいで若くはない。
 その時、まてよ、と思った。昨日の晩、お使いに駅前までコロッケを買いに行ったとき、電器屋の側になんだか似た女の人が立っていたのを思い出したのだ。確かに、よう似た服装だった。同んなじ人か。いや、違うか。確信は持てなかった。
そして、今、目の前に、今朝見た女の人が立っている。
 とはいえ知らない人なんで、気にはなったが行き過ぎようとした。が、女の人から話しかけてきた。
「お兄ちゃん。ちょっとお伺いしてもいいかしら」
 ハスッパな言い方だった。こんな喋り方をする女の人に初めて会った。
 女の人は他所行きの服を着ていた。決して新しくはなさそうだが、シワひとつない。持っているハンドバッグも使い古されてはいるが、高級そうに見える。
「なんですか」
立ち止まって、ぶっきら棒に答える。
「ここに紅葉の木ってなかったかしら」
「あ、ああ。台風んとき倒れて引っこ抜かれました」
「もう、ないんだ」
見ればわかることを言う。
「立派な木だったんで、もしかしたら何処かに移されたのかと思った。そう、でも切られたわけじゃないのね」
「倒れた後、切っとりました」
「そう。切っちゃったんだ」
 女の人はしゃがんで、土に手のひらを当てた。じっとしている。そのまま行ってもよかったが、今朝と昨日のことが頭によぎったので、訊いてみた。
「今朝、校門んとこにおりましたろう」
「いたわよ」
動揺もせずに女の人は答える。
「昨日の晩、電器屋んとこ、おりましたろう」
「いたわよ。よくお会いしてたのね」
と土をなでる。
「誰か、探しよるんですか」
「そうね」
手がとまった。
女の人は手をはたいて立ち上がる。
「じゃ、お兄ちゃんに会うのは三回目なんだ」
「何しよるんですか」
「そうねえ。それは秘密」
笑っている。頭によぎったことを言ってみる。
「もしかしてじゃけど」
「なあに?」
「違ったら、すまんことじゃけど」
「うんうん」
「おばさん。幸子の母ちゃんですか?」
なんでこんなことをツルっと言ってしまったのか。でも、言ってしまったら仕方ない。
おばさんは目をまんまるにしてワシを見ている。
「正解! よく、わかったねぇ!」
と満面の笑み。喜び爆発だ。言いながら、近寄って来た。
「幸子に会いに帰ってきたんですか」
「帰って? そうか、帰ってきたってなるんやね」
何が可笑しいのか、うふふと笑う。
「近くまで来たから、どうしてるかなぁって思って。義正とか幸子とか」
「おばちゃん、よう戻れましたの」
ちょっと不快で言ってみる。半年前、ここで最後に聞いたことを思い出していた。

ーーうちのお母ちゃん、従業員と駆け落ちしたんじゃ。
 有名な話。山本も知っちょろう。

 幸子は言った。大人が話すことは、聞きたい聞きたくないに関係なく、嫌でも耳に入ってくる。その話もいつの間にか知っていた。だからと言って、面と向かって確かめたことはない。半年前、この橋のほとりで、幸子は自分からそのことを話し出したのだ。
「坊ちゃんは、私が町を出た理由知っておいでなの」
「知っちょります」
「あら、いやだ」
バレてるの、と舌を出す。
「ね。あなた、幸子とお友達?」
ワシのことを今度はあなたと呼び、家出のことに触れてもケロリとしている。
「同し組じゃ」
「そうなんだ。だから心配してくれるのね」
「心配?」
「幸子はあたしのことどう思ってるのかしら。何か聞いたことある?」
「・・・」
「あるんでしょ」
「幸子は何とも思っちょらんです。母ちゃんがおらんのが普通じゃから」
「え? 普通ってことはないでしょう。いるのが当たり前なんだから」
「・・・」
「きっと、会いたいと思うのよ」
会う気でいる。
「電器屋にいたのも、それでですか」
「そう。出てくるかなぁって。声でも聞こえるかなぁって。そしたら」
「はい」
「お父ちゃんがシャッター閉めに出て来て、いやぁ、びっくりしたぁ。すぐ退散したわ」
「父ちゃんには会いたくないんですか」
「今更、会えないわよ。怒られちゃうわよ」
「怒られるのが嫌なんですか」
「嫌よ。怖いじゃない。しっかし老けたなぁ、あの人」
 あんまり相手にしない方がいい人のように思った。幸子に会いたいなら、どうせ止めても会いに行くだろうし。これ以上話すのはやめて、女の人を置いて歩き出す。が、後からついて来た。
「何ですか。まだ、なんか用ですか」
振り返って訊いた
「頼みがあるのよ。幸子と会わせてくんないかなあ」
と手をあわせる。
「会いたきゃ、勝手に会えばええじゃないですか」
「それが、今朝校門で会おうと思うたんよ。だけどねぇ。顔がわかんないんだ。見れば、わかると思ったんだけどねぇ。10年もたつとなぁ。やっぱりなぁ」
 知るか。この人と幸子を会わせるのに、なんでワシが骨を折らねばならん。
「手伝えません」
「幸子が無理なら、義正でもええんやけど」
「義正さんは、大学に行っちょるから、この町にはおりません」
「そうか。大学生か。偉うなったなぁ」
一人で喜んでいる。あんた、何もしてないだろ。
歩き出すと、まだついてくる。もう、立ち止まらなかった。
「ねぇ。お兄ちゃん。力、貸してよ。恩に着るからさぁ」
返事はしなかった。女の人は勝手に喋っている。
「あたし、今、東京にいんのよ。一緒に逃げた僕ちゃん、てんで頼りにならないの。俺が何とか食わせっから、とか。嘘ばっか。二年続いたかなあ。パートから帰って来たらトンズラ。まあ、ねえ。あいつまだ10代だったから、仕方ないか。どう思う。刺激、強すぎる?」
黙っていた。いつまで、付いてくる気なんだ。
「その時、あたしは30過ぎで、田舎もんだから、どう稼げばいいかわかんないわけよ。弁当屋、やってたんだけどさ、したら、そこのおばちゃんが、あんたべっぴんさんだから、もっと稼げるとこ紹介しよか、とか言われてね」
止まった。右に行けば、ワシの家だ。まさか、そこまでついてこられるのも困る。女の人はお構いなしに喋り続ける。
「お願いしますって言ったら、お決まりの水商売。まあ、ママさん、ええ人やったから、そこでずっと働いて、"ルリ子"て名前の店。浅丘ルリ子から来てんだってさ。笑っちゃうでしょ」
仕方なしに言った。
「さっきも言うたでしょ。幸子と会いたいんなら、勝手に会えばええでしょう。電器屋、行ったらどうですか」
「嫌よ。お父ちゃんいるじゃない。ねえ、ただとは言わんよ。なんぼなら口きいてくれる?」
「なんぼもろうても、やりません」
「あんた、あんた、一本気やなぁ。気に入ったわ」
「なに言うちょるんですか。もうワシの家近いですけえ、ついてこんでください」
「そっかあ。やっぱりダメか。じゃ、しのぶにでも頼むかなあ」
「シノブ?」
「この先の神社に嫁いだあたしの親戚。歳の離れた姪っ子よ。知らない? 結婚する時、ご祝儀弾んだから、これくらいしてもらわんと」
女の人をそこに置いて、ワシは家に戻った。

氏神さんに来て驚いた。
掃き清められた階段の両脇には提灯が下げられている。階段の下と上がり切った場所に露天が並んで、開店の準備を急いでいる。
ああ、今日はもしかして夏祭りの日か。
手近の綿菓子屋を覗いてみる。見知った顔が、袋に入れた綿菓子を店先に下げていた。
「500円て。暴利コキすぎじゃねえのん」
「なんじゃ。商売の邪魔すなよ」
ドスを効かせて振り向く顔は、伊三郎に違いない。
向こうもすぐに気がついた。
「おりょ? もしかして明子か」
「そうじゃ。相変わらず汚い商売しよるの。こんなん原価五円くらいやろ」
「馬鹿。客は綿菓子買うんじゃない。祭りの賑やかしを買うんじゃ」
「ものは言いようじゃの」
 二人で笑った。幼馴染みで気心の知れた伊三郎とは、十年、間があっても、すぐに打ち解けられる。少しずつ出ていた地元言葉が全開になっていく。
「伊三郎は変わらんの」
「いつ帰ってきたんか」
「帰ってきたわけじゃないの。ちょっと寄っただけ」
「おらんようになって長いの」
「十年かなぁ」
「お前、しもうたと思うちょるじゃろ」
「なんがね」
「あんな電器屋と一緒にならんと俺と一緒になりゃあ、楽しく暮らせたのによお、てな」
「夫婦でテキ屋か。ゾッとするわ」
 あん時は電器屋が良かった。商売も堅実やし。人柄も真面目そうやし。賭け事も嫌いそうやし。
でも今考えると、伊三郎の言うとおりかも知れない。全然面白味のない男だった。仕事ばっかり。どこにも連れて行ってくれん。美味いもんも、ええ景色も、映画も歌も買い物も、どこにも連れて行ってくれん。子供ができたら多少変わるかと思ったら、変わらない。女の子ができたら、少し変わるかと思ったら、変わらない。全く、何の楽しみで生きてる男やら。
「お前、今、なにしよるん」
「東京でお店勤めてるんじゃ。東京、来たら寄って」
と名刺を渡す。
「いや、いかにも水商売ですみたいな名刺じゃの」
「東京じゃ、露店、出さんの」
「アホ。シマが違うわ。しかし、店の名が"ルリ子"て、これまたいかにもじゃな」
興味深げに名刺を見て、腹巻にしまう。
「流行っとんのか」
「流行っとるわ。店にな、美人の若いホステス入って、その娘、えらい浅丘ルリ子に似てんじゃ。したら、早速ママさん、店の名前"ルリ子"にしてな、大繁盛じゃ」
「なんじゃ、お前、関係ないじゃん」
「誰のお陰でもええじゃない。儲かっとるんじゃから」
「で、何でこっち来たんじゃ」
「客で筋の悪いのがいてな、散々ツケで飲んどいて転勤でトンズラしくさったんじゃ。住所がわかったんで、ここまで取り立てじゃ」
「借金とりか。で、首尾は。ひと肌、脱いだろうか」
「いや、綺麗に払ってもろうたわ」
「どうせ家に押しかけて啖呵切ったんやろ。それとも会社か?」
「まぁええじゃないの」
「どっちがヤクザだか」
 話は尽きないが、こうしてばかりもいられない。
「しのぶは上?」
「しのぶ?」
「神社の嫁さんじゃ」
「ああ、若奥さんか。社務所におろう」
「じゃ、挨拶してくるわ。商売、頑張り」
「お前もな」
伊三郎と別れて階段を登る。

「わぁ。明子ちゃん。帰って来たん」
しのぶは十年たっても、19のまんまの顔をしていた。
「帰ったんじゃないのよ。ちょっと近くに用があって。そしたら幸子のことが気になって」
「会うたん?」
「会えるかい。店にはお父ちゃんがおるからな」
「もう離婚したんやから、そんな怖がらんでも。幸子ちゃんも会いたいんと違う?」
「そうじゃろ。やっぱり母親じゃもんな。会いたいよな」
「そうと思うよ。まぁ、上がって上がって。お茶でも飲もうや」
しのぶに促されるまま、社務所の看板が掛かっている建物に入る。
入るとすぐに広い板敷の間があって、そこに何やら祭りの荷物が置いてある。そこを過ぎると、住居になっていた。
「こっからが家じゃ。ここは社務所兼住居じゃから」
「賑やかじゃの」
「まあ、今年までな」
お茶の支度をしながらも、話は途切れない。
「今年? 来年は」
「やらんと違うかな。奉納の神楽舞やる子がおらんでな」
「しのぶも踊れようが」
「忘れたん? 神楽舞は結婚前の女しか舞えんのよ」
「はあ、昔は取り合いじゃったのにな」
希望者が多くてあたしは舞い手になれなかった。
「今はおらんの」
「おらんのよ。うちの娘に教えちょるけど、まだ四つじゃけねえね」
「そうかあ。大変じゃの」
「今日は舞手が誰もおらんから、娘に踊らすんよ。よかったら見てって」
「見る見る」
お茶を一口すする。そろそろ本題に入りたい。
「で、いつまでこっちおるん?」
「まあ、明日には帰らんと」
「明日は日曜じゃから、午前中幸子ちゃん、連れ出してあげよか」
こちらから切り出すまでもなく、察してしのぶが提案してくれた。ご祝儀、弾んどいてよかった。
「恩に着るわ」
「いや、でも、今日会えるかもね」
「今日?」
「だから、お祭り。毎年、幸子ちゃん遊びにくるけえ、会えるかも」
「お父ちゃんと?」
「もう、中学生じゃから、くるんなら友達とじゃろ。来たら、声かけてあげるわ。それまで、ここでテレビでも見とるとええわ。晩御飯、出されんけど、屋台の焼きそばでも食べとって」
「ああ、そうさせてくれるか。頼むわ」
それから少し話して、しのぶは出て行った。祭りで忙しいのだろう。

 時計は5時を指していた。まだまだ時間はある。トイレに立つと、ある部屋から雅楽が漏れていた。中で人の気配もする。どうしようかと迷ったが、好奇心には勝てず、襖を開けた。
 中で鈴を持った四歳くらいの女の子が舞っていた。急に襖が開いて、舞うのをやめた。
「ごめんね。練習中?」
「おばちゃん、だれ?」
「お母さんのお友達。今日はお嬢ちゃんの神楽を見に来たの」
「はじめてみた」
「初めて来たのよ」
「おばちゃんも、かぐら、したの」
どうやら部屋に入れてもらえそうなので、中に入った。ラジカセから雅楽が流れていた。
「ちょっとお話しよう。これ、止めるね」
女の子が頷くのを待って、テープを止める。
「おばちゃん、おなまえは」
「明子。おばちゃんて言われるより、明子ちゃんて言われる方が嬉しいかな」
「あきこちゃんていうんだ。いくつ?」
女の子はいつも名前と歳を訊かれるのだろう。だから初対面の人には迷わずそれをしてくる。幸子の時とそっくりだった。
「四十四歳。でも、秘密にしてね」
「どうして」
「だって、恥ずかしいじゃない」
「なんではずかしいの」
「女の人はね、歳をとるのは恥ずかしいの」
「としをとるのはなんではずかしいの」
出た出たなぜなぜ攻撃。義正はあんまりなかったけど、幸子はひどかった。女の子の方が酷いのかしら。
「歳をとると皺とかいっぱいできるでしょう。だから恥ずかしいの」
「はずかしくないよ。おばさん。じゃなかった、カノちゃんかわいいよ」
綺麗ってことだろうか。この歳で、もうオベンチャラを言うか。でも、まあ、悪い気はせんな。
「お嬢ちゃん、お名前は」
「しょうこ」
「ショウコちゃんか。おいくつ」
「よっつ」
指を固めて突き出す。あんまり可愛いんで手を取って握手した。
「ショウコちゃん。友達になろう」
ショウコちゃんは、うふふと笑う。
「アキコちゃんの言うこと、可笑しいかな」
「だって、おとながおともだちっておかしい」
「そうかなあ。可笑しいかなあ」
「おかしいおかしい」
ショウコちゃんは、一人で受けて笑っている。
「可笑しいかなあ」
「おかしいおかしい」
同じやり取りをずっと続けた。楽しかった。幸子とこんなやり取りしたっけなあ。
襖が開いて、しのぶが顔を出す。
「来た来た」
ショウコちゃんの頭を撫でて、しのぶに付いて部屋を出た。

 別に一緒に行く約束などしてなかったが、幸子の母ちゃんが氏神様に行くと言ってたので気になった。
 幸子の気持ちも考えないで、自分が会いたいばっかりの人だと思った。どうせ止めても会いに行くだろう。幸子が会いたいと思っているんなら、それはいいが、そうじゃなかったら心配だ。と言って、側にいたから何ができる訳でもないが、心配は心配だ。あんまり心配になったんで、祭りに行くことにした。幸子は毎年祭りに行く。
 神社の階段下で待ってると、幸子が友達とやって来た。浴衣を着ている。ワシは学生服のまんまだった。せめて私服に着替えとけばよかったと思ったが、もう間に合わない。もしかしたら私服の方が、もっと変かも知れなかった。
「お。やまもとー! お前も祭りなんてくるんか」
「お、おう」
「なんか、私らの浴衣姿見に来たんか。スケベじゃのう」
相変わらず口が悪い。さっき会った母ちゃんと、確かに親子感がするなあ、などと考えた。
「井田と待ち合わせしたんじゃが、あいつ来んのじゃ」
取り繕いの嘘を言った。
「井田なら、校庭で壁投げしとったぞ」連れの女が言う。「あいつ、高校、野球で行くつもりじゃからの」
「そんな、あいつ野球うまいんか」と幸子が反応する。
「なわけないじゃろ。ボール投げる前に、勉強投げとるんじゃ」
「佐野ちゃん。うまいこと言うの」
と、ワシを無視して、二人で階段を上る。慌てて、ワシも後を追う。
「いや、気持ち悪うー。付いてこんといて」
佐野の馬鹿が言う。誰がお前に付いてくか。
「上にあがるんじゃ。方向が一緒じゃ」
そう答えると、今度は幸子が、
「三メートルは離れてな」
と言う。全く、誰のせいで祭りに来とると思うちょるんじゃ。
 でも、言われたから仕方ない。三メートル離れて、二人をそれとなく監視した。何人か友達も来てたんで、たわいもない話をしながら、目の端で幸子を追っていた。女の子の浴衣組は五人になって、べちゃくちゃお喋りに忙しい。
 そこへ神社の若奥さんが現れた。若奥さんが幸子に何か言って、輪から引き離す。残り四人はさして気にする風もなく、幸子に軽く手を振ってお喋りを続ける。二人は社務所の方へ歩いて行った。三メートル離れて、ワシも後を追った。
社務所の中に入られると困ると思ったが、社務所前の空き地に張られた関係者用のテントの側に、幸子の母ちゃんは立っていた。テントの中の、酔っ払いの爺さんどもの後ろの椅子に顔を伏せて座り、ワシは聞き耳を立てた。何かまずいことが起こったら、幸子の手を取って走るつもりだった。何かまずいこととはなにか、それはわからなかった。

「サッちゃん。しばらく」
母ちゃんはもう感動モードである。幸子は何も言わない。
「大きゅうなったねぇ」
チラ見すると、幸子の顔は硬かった。
「サッちゃん。どうしたん。お母さんじゃよ」
若奥さんも加勢に入る。さあ、どう出る、幸子。怒るか。泣くか。笑うか。無視するか。
「お母ちゃん。こんにちは」
と普通の挨拶。
「あ、ああ。こんにちは」
戸惑う母ちゃん。
「お父ちゃんには会いましたか」
「いや、まだじゃけど。会わんといけん?」
「会ってやってください。これから、一緒に行きますか」
「いや、それは、その」
「会ってもらえませんか」
怒るでもなし笑うでもなし。案外冷静じゃのう。母ちゃんは渋っとるな。これからどうなるんじゃろか。と思っていると、若奥さんが入って来た。姪とか言うとったな。母ちゃん側じゃろうかな。
「お父ちゃんところ行くにしても、なあ、せっかく親子で会えたんじゃから、ちょっとここで話しときよ。社務所、入ろうか」
「私は、ここでええです」
「サッちゃん、怒っとるの?」
「怒ってないです。お母ちゃんと会うたら、まず言おうと思うちょったことを言いよるまでです」
母ちゃんを、まっすぐに見ている。母ちゃんは困ったような顔で答えた。
「そりゃ会うてもええけど、怒られるんは嫌じゃなぁ」
ワシに言うたのと同じことを言う。子供か。
「何で怒るんです」
「そりゃ、勝手に出ていったからなあ」
「そうですね。それはお母ちゃん悪いです。それはちゃんと謝らんと」
「もう離婚しちょるし。会うのは気が重いのう。何言われるか分からんし」
「お父ちゃんは、そんな人ではありません」
「え?」
あんまりキッパリ言うんで、母ちゃんは驚いたらしい。
「でも、会うてみんと分からんじゃろう」
「お父ちゃんは、理由もなく人を悪く言う人じゃありません。無闇に人を責めたり困らせたりする人じゃありません」
「そ、そうかあ?」
「そうです。父ちゃんは口下手で、面白みがなくて、真面目ばっかりの人です。仕事ばっかりして、要領が悪くて、愛想笑いもようせんような人です。私もどっか連れてってもらったり、親子で笑いあったり、そんなん今までないです」
「かわいそうに。苦労したんじゃなぁ」
 あちゃ、まるで伝わっとらん。母ちゃんは涙声で、チラ見するとハンカチで目を拭っている。若奥さんは、親子の会話に入ったらいかんと思うたか、社務所の玄関まで離れて見ている。
「たぶん、お父ちゃんは今でもお母ちゃんのことが好きです」
と、幸子は驚くことを言う。どうなる。母ちゃんも驚いて、黙っている。
「七五三の時、橋のそばの紅葉の木んとこで写真撮ったこと覚えちょりますか」
「覚えちょるよ」
「今でもうちに飾ってあります」
「え」
「迷惑ですか」
「迷惑じゃないけど」
「お母さん。できることなら、戻ってもらえませんか」
 そうくるか。
「いや、それは、ちょっと、のう」
 母ちゃんの声が上擦っている。主導権は幸子に取られたようだ。幸子は話す。
「私、去年、お父ちゃんにすごく怒られたことがあって。
 その時、私、従業員の人をからこうたんです。その人が大事にしとるもんをからこうたんです。したら、後で父ちゃんにすごく怒られました。
 人が大事にしちょるもんを馬鹿にするなって。それがあるからあいつは仕事を頑張れるんじゃからって。それをからかったり馬鹿にしたり金輪際するなって。
 それで私反抗して訊いたんです。じゃあ、お父ちゃんが大事にしてるもんて何って。
 したら、お父ちゃん、

ーーそれはお母ちゃんとお前じゃ

そう言いました」
「え。あたし?」
「お父ちゃん、そう言いました。お母ちゃんとお前じゃって」
「・・・なんで」
「びっくりしました。私ら捨てて出て行ったのに。なんでお母ちゃんなんじゃって」
「き、訊いてみた? なんでかって」
「いいえ。たぶん、そんなん理由なんてないと思います。ただ、お父ちゃんお母ちゃんに言うたんですってね。

ーー若いんが、ええならとっとと出て行け。

って。
酔って、珍しく軽口だったんかも知れません。本気じゃなかったと思います。けど、お母ちゃんを信じてないってお父ちゃんが言ってしまったのは事実です。じゃから、お父ちゃんは自分を責めることはあっても、お母ちゃんを責めたりはせんと思います。お願いですから、お父ちゃんに会ってください」
頭を下げた。
「会うのは、会うのはええけどな。戻るんは、勘弁な」母ちゃんは言った。「もう好き勝手に生き過ぎたわ。じゃから、戻るんは勘弁。それでもええか」
頭を下げたまんまで、幸子は頷いた。母ちゃんは近寄って、幸子の肩を叩いた。それでも幸子は頭を下げたまんまであった。

喧嘩じゃ!喧嘩じゃ!

声が上がって、一斉に人波が動いた。

ヨッちゃんと伊三郎の一騎打ちじゃ!
とうとう始まったんかい!
ヨッちゃん、負けんなよ!
伊三郎、意地を見せちゃれい!

来賓の爺さんたちも皆動く。我がちに喧嘩を見ようと、長机はひっくり返る。椅子は倒れる。あっというまに人が動いた。
突き飛ばされて転んだワシがようよう立ち上がると、テントの周りには、もう誰もいなかった。幸子も母ちゃんも煙のように消えていた。

           了

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