12 神楽舞
夏祭りの夜に境内でその勝負は始まった。
晩方、俺は神楽が見たいというカナコんところの清子婆さんと神社に来ていた。一緒に行くはずだったカナコは、熱を出して寝込んでいる。カナコの母ちゃんに頼まれて、俺が行くことになったのだ。
「タツ、すまんのう」
「なんの。カナコには借りがあるけえの。それより、御神楽が今年で終い言うんは本当か」
「神社の修繕があるちうからの。おう、タツの親父も大工で入っとるらしいの」
「お陰で、やっと家もひと息じゃ」
「ワシんところも、また他所に移らんにゃならんかと思うたが、大角さんに口きいてもろうて、よかったわ」
カナコの一家は、川の護岸工事を目当てに、この町に越してきた。工事が終わって、また流れんにゃあならんところを、神社の改修の方へ入れてもらえたらしい。大工以外の力仕事もある。この前、大角の奥さんとカナコが知り合いになった。もしかしたら、そのことが関係あるのかも知れなかった。
二人でやっとこさ階段を上がったところで、地回りヤクザの大道寺伊三郎とヨッちゃんの死闘は丁度はじまるところだった。今に至るまで語り継がれ、もはや伝説となったあの喧嘩である。
かたや四十代半ばとはいえ、筋骨隆々、泣く子も黙る伊三郎。かたや三十過ぎの愛嬌者の暴れ馬、人は愛情と恐怖を持ってヨッちゃんと呼ぶ。本名は知らない。
30分に及んだ戦いの末、実際にはたぶん15分くらいであったろうが、互いに戦闘不能に陥り、勝敗は預かりとなった。
最後の一撃を受けた伊三郎は仰向けに倒れ込み、加えた側のヨッちゃんも、力尽きその場にへたり込んだ。
見ていた子分がいきりたつ。ヨッちゃんに襲いかかろうとするところを、伊三郎は首だけ起こして、それを制した。
「恥ずかしい、真似、すんじゃねえ。こ、こりゃ男と男の、勝負事じゃ。手出し、し、しやがったら、ただじゃ、おかねえぞぅ、、」
声に力はないが、子分は足を止め、代わりに伊三郎の体を起こす。その子分の顔を押し除けて、なおも一人で立とうとする伊三郎。ところに、声が飛んだ。
「この勝負、わしが預かる!」
見れば、宮司の秋山の爺さんが立っている。
「伊三郎、ここは俺に免じて引いちょくれ。ヨッちゃん、これまでじゃ。お前はヤクザもんでもないのに、喧嘩やりすぎじゃ」
わかったという合図だろう、ヨッちゃんは右手をあげて、そのまま前のめりに倒れていった。清子婆さんが慌てて駆け寄る。
「兄ちゃん、手を貸しい。社務所に連れてくよ」
指名された俺は、仕方ないので、ほか数人とヨッちゃんを社務所に運ぶ。伊三郎も子分たちに抱えられて、消えて行った。
やがて、テキ屋連中は呼び込みを再開し、滞っていた人の流れが戻り始める。
「焼きそば焼きそば安いよお」
「はい。りんご飴いらんかねー」
「輪投げ的当て一回百円」
背中で声を聞きながら、社務所の扉を開ける。
「上にはあげるな。今、土間にゴザを引く」
まあ、泥だらけ、血だらけ、埃まみれのヨッちゃんを、畳にあげたくはないな。
若奥さんが急いでゴザを引く。勿論、爺さんの嫁ではない。爺さんの息子の嫁である。
俺らが、ゴザの上に横たえるともう、酔っ払っているヨッちゃんはゴーゴーいびきをかきはじめる。
「なんじゃ、こいつ。ええ気持ちで寝よる。だいたい、なんで喧嘩になったんじゃ」
秋山の爺さんがみなに尋ねた。
「伊三郎が、初めに絡んだんじゃ」
「ほう、ヨッちゃんからじゃないんか。珍しいの」
「なんでも、飲み屋の親父がショバ代払わん、ちて言い出したらしいんじゃ」
「ほう。なんで」
「ショバ代いうたら、程度の悪い困り客への用心棒代じゃろ」
「そうじゃの」
「それが、おらんようになったちうてな」
「何が?」
「じゃから、悪い客よ」
「ほう。悪い客がの。どうして」
「そんならあが難癖つけたり暴れる前に、ヨッちゃんがつまみ出して成敗するからじゃ」
「あ。なるほどの。それでショバ代払う意味がない、と」
「お前のせいで、地回りのシノギが上がったりじゃちうてな」
「ほうかほうか。そりゃ愉快愉快」
爺さんはご満悦である。
「じゃあ、組長に言うとこう。もうちいとショバ代下げえ、ちてな」
とまた笑う。
「あ、ててて!」
消毒薬が染みたのか、ヨッちゃんが目を覚ます。
「ええ男が我慢せんかい」
清子婆さんが、打ち身の軟膏を塗る。
「あ、ああ。婆さん、すまんのお」
相手の顔を見て、急に大人しくなる。気がつくと、上半身裸にされて、お湯で拭かれたり、消毒されたり、軟膏を塗られたりしている。それをしているのが、清子婆さんと、若奥さんである。
ビックリして、ヨッちゃんは固まる。何しろヨッちゃんは女性が苦手なのである。それが五歳でも八十歳でも、まして自分と同じ年頃の若奥さんなら尚更のこと。
それを知ってる男連中はクツクツ笑う。それを知らない若奥さんは、子供の身体でも拭くように、ゴシゴシ擦る。いたたまれなくなったヨッちゃんが身を捩る。
「あ、も少しですから、我慢してくださいねー」
「はい」と素直に答えたヨッちゃんの顔は茹蛸のように赤かった。
「足の方はどうでしょう。お怪我はありませんか」
「お、お怪我は、ありま、せん!」
これは死ぬると、俺らは社務所を転がり出た。
「ご苦労様ー。ありがとうねー」
若奥さんの声が後から追ってくる。返事するよりも、一刻も早く、社務所から遠ざかり思い切り笑いたいのじゃった。腹が痛い。口元は既にふひょふひよの笑い口になっていた。
やがて清子婆さんとヨッちゃんが出てきた。
「お神楽、見ようかい」
清子婆さんと社殿舞台にまわる。カセットテープから、雅楽というんだろうか、神社でよく聞く音楽が流れる。舞台にはひとりの女の子が座っていた。小さい。まだ、五歳にもなってないだろう。その子が赤袴、白の舞衣を着て、舞台中央に座っている。手にしているのは鈴と榊か。
女の子はじっと動かない。白粉を塗られ、唇と目元に赤く紅がさしてある。どこか一点を見つめて、視線を泳がせることもない。
この近辺に露店は出てない。喧騒からは多少静かだ。
雅楽の音が徐々に大きくなる。女の子はまっすぐにスッと立つ。右手を伸ばし、シャンと鈴を鳴らす。左手で榊を頭上に掲げ、円を描いて、ゆっくり舞台を歩く。再び中央前面に戻って来た時、正対し、シャンと鈴を打つ。
美しい。
幼児の舞であるのに、その舞は可愛らしいというより美しかった。いや、美しいというより、神々しかった。
※
「エノさんは、今度はどこ行くん」
ロッカーの荷物を詰めながら訊いてみた。荷物は手提げバックひとつに入る。
「俺か。俺は九州。今度はトンネル」
エノさんもあらかた片付いたようだ。
「ヨッちゃんは、今度どこ?」
「小金が入ったんで、ちいとぶらぶらして、それから考えますわ」
「そうか。ヨッちゃん、なんぼになる?」
「三十二です」
「三十越えとんのか」
「へい」
エノさんはロッカーの中を雑巾で拭く。
「俺は今年で六十じゃ。雑巾いるか」
「あ、お借りします」
エノさんに倣って、ロッカーを拭く。
「しかし、見えませんの。四十代ちゅうても通りますわ」
「馬鹿こけ。あ、雑巾洗って窓んとこ干しといてくれ。それじゃあの」
エノさんはバックを片手に立ち上がる。
「お気をつけて」
「お世話んなりました」
「ありがとさんでした」
飯場にまだ片付けで残っていた連中が声をかける。
「ああ、みんな世話になったの」エノさんは顔の前で手刀を切る。「ヨッちゃん、お前もそろそろ仕事考ええよ。俺の年になってみい。力仕事は流石にきついわ」
そう言い捨てて出て行った。恐らくもう会うことはないだろう。いんや、十年たって、どっかの現場でまたバッタリ会うかも知れんな。神のみぞ知る、か。しかし、その時エノさんは七十。果たして生きておるか。
雑巾を干して、飯場のプレハブを出る。オンボロアパートはまだ解約していない。
とりあえず、今日は酒じゃい。で、駅裏の飲み屋街に繰り出すことにした。
しこたま飲んで、千鳥足でニ丁目の坂を上る。左には山田川。すっかりコンクリを打たれた両岸が、月夜にうっすら白く浮かんでいる。昼間見れば、キレイといえば、まぁキレイなんだろう。昔の緑の面影はなくなったが。台風たんびに崩れるんじゃ仕方ない。僅かな違和感も、時間が経てば消えて無くなる。そんなもんだろ、と思って何気に眺めていると、左目の端に光が走った。なんじゃと顔を振る。すると、河原にある飯場のプレハブの方でまた光る。
こんな遅くに誰じゃろう。誰かおるのか。いや、残るはずはない。今日みんな私物を引き上げて、現場監督が最後に鍵を閉めたはず。その鍵は工務店にあるだろうに。
車が止まっている。高級車だ。また光る。音楽? 何か聞こえる。誰かがプレハブのそばにいる。
近づくにつれ音の正体がわかった。雅楽だ。月夜の下、板を敷いただけの簡単な舞台が作られ、つい先日見たばかりの女の子が装束をつけて神楽を舞っていた。
見ているのは、秋山の爺さんと、その息子夫婦なんだろう。若奥さんがいるから。あと、現場監督と数人の背広の男たち。
それらの人間が、月明かりの下で神楽を見ている。
さっきの光は? カセットデッキを操作するのに、懐中電灯でもつけたのかもしれない。音が聞こえ出して、光はもうつかなかった。
宮司の爺さんの声が重なる。
かけまくも かしこき みずはめのかみ
なりませる みずはめのかみ
もろもろの まがごと なきよし きこしめされ
ありがたく
つみけがれ あらむをば
はらへたまへ きよめたまへと まをすこと きこしめされ
ありがたく
かしこみかしこみ まをす
何を言っているのかはわからなかったが。神妙な、清らかな気分になっていった。すうっと酔いが醒めた。
やがて、神事は終わった。
現場監督が、最初に俺に気づいた。
「あっ。びっくりした。ヨッちゃんじゃないの。どうした。こんな夜中に」
「びっくりしたのはこっちです。監督、何しよるんですか」
女の子と両親がプレハブ小屋に入っていく。若奥さんは、俺に黙礼した。中で着替えるのかもしれない。プレハブの電気がついた。
秋山の爺さんが寄ってくる。背広姿だ。爺さんこそ、装束に着替えい。
「何しよってんですか」
「ああ、ヨッちゃん。神さんにお礼じゃ。神楽を奉納したんじゃ」
「ほう。ああいうもんは、工事の前だけか思うちょりました」
「まあ、普通はの。じゃが、ここの水神さんは、なかなか気が荒うての。工事で怪我人出んかったんは、奇跡じゃ言うて」
背広組がゾロゾロ車に乗り込む。
「ヨッちゃん。じゃあの。元気での」
現場監督が運転席に乗り込み、車が去っていく。
車を見送りながら、秋山の爺さんが続ける。
「あんのう。わし、そう長うないんじゃ」
「えっ。爺さん。死んじまうんか」
いきなり驚くようなことを言う。
「まあの。まあ、順番じゃから、それはええんじゃがの。あっちで婆さんとも早う会いたいしの」
「へえ。死んじまうのに落ち着いちょりますの」
「ほうかの」
「なんで、そんな秘密なこと、俺に言うですか」
「いや、別に秘密にゃしとらん。訊かれんけえの」
「爺さん。いつ死にますかの、言うて訊くやつはおらんじゃろう」
「ああ、そうじゃのう」
爺さんは笑った。釣られて俺も笑う。
「ここで会うたのも、神さんの導きやもしれん。それでな、ひとつ頼めるんなら頼みたいことがあるんじゃが」
「俺にできますか」
「その前に、ちょっと訊いてもええか」
「なんですか」
「なんでお前、喧嘩ばっかりするんじゃ」
ほんとに困ったヤツだというような顔をする。でも爺さん、死んじまうのか。ここは真面目に答える、か。
「さあ、なんでじゃろうかな。理不尽な威張ったヤツがおると、すぐに頭に血が昇るんじゃ」
「そりゃ、こまい時からか」
「そうじゃの。親父がお袋をいつも殴っておってな、お袋は悪うないのにな。それでお袋は出て行った」
「ほうか。苦労したの」
「今度は代わりに俺が殴られた。家のことさせられて、殴られて殴られて殴られて殴られて、中学ん時、殴り返したら、俺の方が強うなっちょった。可笑しいの。それで家を出た」
爽快だった。荷物を詰めて家を出る時、親父はずっと背中を向けて知らんふりをしていた。
「中学でか」
「そじゃの。それから年を偽って土方じゃ。飯場行って雇うてくれ言うたら、雇ってもらえたけえの」
「ほうか。悪いが、もひとつ訊くが、なんでひと所に止まらん。お前、県を跨いであちこち行きよるらしいの」
「まあの」
「なんで止まらんのか」
「なんでかの」
「母ちゃん、探しよるんか」
図星を言う。
「・・・いや」
「そうなら、頼めんのじゃ。暫く、ここにおれんかの」
そろそろ、そろそろふっきらないといけない。最近、思うことではあった。
「小金が入ったけえ、ちょっとここで、ぶらぶらしようか思っちょるが」
「母ちゃんはええんか」
作り笑顔をする。
「ようはないがの。会えるんなら、こっちがいごかんでも会えるじゃろ。神さんがおるんならな」
爺さんは黙った。神さんのことはわざと言った。神さんは会わしてくれる。そんな言葉を期待したのかもしれない。けれども、爺さんは、そうは言わなかった。
「呑気でええの。こっちは死ぬる言うのに」
ええ答えじゃ。さすがじゃの。ジジイ。
「そっちとは関係ないでしように」
「まあ、そうじゃの」
「で、頼みちゅうのは」
できることなら、なんでも受ける気になっていた。
「うちの神社の社人になってもらえんか」
「シャジンちゃなんですの」
「寺で言うたら寺男じゃ」
「ああ」
「息子は神職の資格は持っちょるがの、ずうっと中学校の先生しよったから、神事に疎うなっての、わしがついて教えりゃええが、まあ、来年死ぬる身じゃからの、それで休職さして、一ノ宮さんに手伝いに行かそう思うてな。その間、神社の修繕が入る。男手がないと何かと困るじゃろう。敷地も広いけえ、なかなか手がまわらん。孫もまだこまいし手がかかる」
「息子さん、先生はお辞めにならんのですか」
「それは知らんが、神社は守るじゃろうて。家賃タダじゃしの。神社関係の収入は税金かからんしな」
「爺さん。息子さん、考え方エグいすな」
「そうかあ」
悪い、いい顔である。
プレハブから三人が出てきた。爺さんが三人に言う。
「こないだから話しとった社人さんな。ヨッちゃんがやってくれるそうじゃ」
え? まだ言うてないぞ。
「そうですか。ありがとうございます」
若奥さんが礼を言う。
「いや、まあ」
屈んで、女の子をも礼を言わせる。
「おじちゃん。ありがとう」
まあ、まあしゃあないか。どうせ、なんでも受ける気だったし。
「申し訳ありません。無理なことお頼みして」
旦那が喋る。一番どうでもええヤツじゃが、一応、「いえいえ」と言っておく。
「言うとくがな。ヨッちゃんは女にはカラッキシじゃからの。旦那さん、その点は安心じゃ」
言わいでええことをジジイが喋る。奥さんは笑っている。
「じゃから、しのぶさん、ガシガシ使っちゃれ。遠慮はいらん」
「はい。遠慮なく」
奥さんが答える。
気がつくと、女の子が、俺のニッカポッカを引っ張っていた。怖がらせないように、つとめて優しい顔を作って、しゃがんで目線を合わせる。
「けんかはすなよ」
女の子のマナコは真剣だった。
了
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