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【HOTEL NORAH - 第二号室】

トンボとあいさつを交わす。

「やぁ。」

ぼくがまだ小さい頃は見かけた顔だ。


彼らと出くわさなくなったのはいつからだろう。

彼らが姿をくらませたのか、ぼくが目を開く回数が減ったのか。

きっとどっちもだ。


内野と外野に挟まれたカゴの中でぼくは、必死に逃げ回っている。

切実な思いをひた隠しながら。

魂の塊、ドッジボール。


小鳥に道を尋ねられる。

「まるばつ美術館はどちらですか?」

「あの信号を左に曲がって、そのまま道なりに進むと左手に入口が見えてきます。」

進む方向が一緒なので信号まで連れだつ。

ぼくは親切だ。

いや、違う。

親切だと思ってほしいんだ。

そうだ。


「こっちですか?」という顔をして小鳥がかしげる。

「そうです。」

お互いにお辞儀をして別れる。


夏だよ。

セミがわんわん鳴いている。

「これでもか!」と言わんばかりに。

耳元のすぐ近くでその声を聞いたことがあるかい?

すん…ごく!うるさいんだから。

どうでもいいけどさ。


ぼくはさっきからずっと

座れる場所を探している

とうとう街まで出てきてしまった

本当はもっと

静かにいられる場所を探していたけれど

もう

座れればいい

それだけでいい

なのに

それが見つからない


どこかに座って

この一日を

書き留めないと

書き留めないと

はやく

はやく!

「書け。書け!」

心がそう言っているから

だから座れればいいんだ

座って書きたいんだ


ゆびやひざがソワソワして

めだまはあちらこちらきょろきょろ

行ったり来たりしているものだから

だからうまく止まれないのか?

ぼくというのは座る権利さえ有していないのか?


ああ、あの小鳥のその後が気になってきた。

ちゃんと着けたかな。

この暑さだから、まだ迷っていたら大変だ。

もし迷っていたならば、ぼくは嘘をついたと思われる。

さぁ、しっかりたどり着いていてくれよ。


名も知らぬ小鳥の身体を案ずる心と、ぼくを良い人にさせてほしい心が、ひとつの領土内に混在している。

彼らはその領土を侵し合ったりしない。

お互いが自分なんだと、よく認めている。

問題を引き起こすのはいつも、地下一階の住人だ。


都会の公園では、筋肉を探求するひと、知識を補完するひと、日常を消化するひと、無償を提供するひと。

もうじき陽が沈む。

ぼくは帰らなくちゃいけない。

そろそろ帰らなくちゃいけない。


昨日のように今日が来るなら。

今日のように明日が来るなら。

ぼくは幸せを見失っていたんだ。

でもこれでいい。

むしろいい。

これでいい。



−置き忘れてあった手記より。


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読んでくれてありがとう。

トップ画には塩川雄也さんの写真をお借りました。

ありがとうございます。