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【HOTEL NORAH -第一号室】

蜃気楼の幻影。

これは幻なのか現実なのかわからない世界にある、宿屋の話-


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「おれは生きたい。」

虎はそう息巻きながら、傷だらけの身体を引きずって歩いている。


遥か彼方の水平線にバウンドしたばかりの月が、妙に赤く、そして巨大で、虎の血潮を燃えたぎらせている。

「おれは生きたい。」

虎はまた言う。

今度はもっと腹の底から出た。



闇が深くなって月もどんどんと高度を上げて来ると、虎を襲うのは寒さと孤独だ。

孤独はずっとだ。

頂点捕食者の虎は心に言の葉を並べる。

草じゃない、おれが食いたいのは肉だ。

でもいまは、とにかく身体を休めよう。

夜が深くなる前に。


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月がまだ空の海に抱かれて、透き通っていた昼の出来事だった。


サバンナに一台の車が現れ、数人の人間がそこから吐き出される。

虎と目が合った。

彼らは少しずつ、にじり寄ってくる。

火薬臭がする細長い数本の筒が、獣をまっすぐに捉えた次の瞬間、草原に銃声が響いた。


人間の放った三発の銃弾に、横腹と後ろ足の一部を削り取られてなお、虎は逃げた。

身を低くして背の高い草の中に身を隠しながら、ゆっくり、少しずつ虎は逃げた。

人間は追ってこない。

これだけの手負いでも、人間は見えない虎のことを恐れている。



突然のことだから--いや、それを差し置いても、虎にはわからなかった。


人間と目が合った時の、彼らの嬉しそうな顔。

 顔つきとは裏腹に、人間の緊張からくる嫌な汗の匂いが立ち込めてくる。

おれは何故、あの忌々しい弾丸の標的にされなくてはいけないのか。

こちらを目がけてまっすぐに向けられた筒の中の暗黒が、どこまでも彼らの心を象徴しているようだと、虎は思う。



来た道に血の跡を残しながら、虎がたどり着いたのは、闇のサバンナに建つひとつの宿、「HOTEL NORAH」の看板だった。


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建物を四方に取り囲む塀の一角には、玄関口になる空間が作られていて、虎はそこから、注意深くホテルの敷地に入り込んでいく。

人間の作ったものであるらしいが、そこには人間の気配がない。


塀の内側では、植物が茂る中庭を、コの字型に囲うように建物が建っている。

中庭には草木に紛れて小さな水たまりが作られてあり、虎はそこで水を飲む。水たまりには空高く打ち上げられたはずの月が映し出されていて、舌が水面に触れる度、月も歪に変化するのだが、虎にはそのことを不思議がる余裕はない。


建物には扉が6つあるが、そのすべてが開け放たれていて、どれももぬけのからだ。

なんの気配もなければ、なんのにおいもない。


幻のようだった。

月光が青く、虎を照らす。

大きな草の葉や、水たまりの水面がその光を反射し、時折かすかな風に揺られて、その瞬間だけ中庭全体が光輝くようだった。


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虎はひとつの部屋の中へ入った。

ペルシャ絨毯のような、美しい柄のフローリングに、小窓がひとつ。

整えられたベッドがひとつ。

額に入った藤の花の油絵が、壁にひとつ。

そこにあるもの、以上。



虎は、床の上で身体を横たえた。

舌で傷口を舐め、自らを癒す。


夜が開けるまで、ここで休もう。

安全だとわかれば、それ以上いたっていい。

雨ざらしになるより少しかましだ。

虎はそう思っている。


虎は目を閉じて夢想している。

あの人間の顔。

嬉しそうな顔。少し怯えたような顔。

銃声と、身体をえぐった黒い塊。

おれは生きたい。

削られた身体の一部は今ごろ、どこで何をしているだろうか。

とっくにハイエナの餌になっているだろうか。

食われるとはどんな気分だろう。

痛いのか。怖いのか。嬉しいのか。

おれは生きたい。


静かな夜だった。

人間を乗せたブサイクな車の音もしない。

「HOTEL NORAH」のネオンが点滅する。


虎にはわからなかった。

どうして撃たれたのか。

また、どうして生きたいのか。

おれの生きたい理由が明確でないうちは、人間がおれを殺したい理由を明快に持ち合わせていなくても、それを許さなくてはいけないのか。

それが平等というものだろうか。


ただ、口からは漏れる。

「おれは生きたい。」


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翌朝。

小窓から太陽の光が差し込む。


部屋に虎の姿はなかった。

床の上の血溜まりだけが、この部屋に起こったわずかな変化だった。

血溜まりから部屋の出入り口に延びる2筋の血の跡は、もう黒く乾ききっている。



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読んでくれてありがとう。

(更新が遅れました、、、。)


今週はトップ画に宮崎ひびさんの写真をお借りしました。

ありがとうございます。