モンゴル紀行 その1

東南アジアをフラフラとした時の、ラオスの星がキレイだったものだから…”次は星を見に旅に出よう”なんて、頭のネジの外れたロマンチストな色黒の男の子は思いついたそうな。

「砂漠なら星はキレイなんじゃなかろうか?そうだ、モンゴルに行こう。でも普通に行っても面白くないな。陸路で行こう。」

実はその頃、大学のとある団体を乗っ取って、そこの長(おさ)をしていた。団体とは名ばかりで、昼休みにメシを食う友達がいなかったものだから、そいつらを集め、こんなことしようよ/あんなことしようよ、と僕の妄想を話し、相手をしてもらっていた。間違いなく、そこらへんのサークルのようなフラットな関係ではなかった。ワンマン団体である。けしからん、けしからん。

幸いにもけっこうノリのいい、心優しい仲間たちに恵まれ、震災復興支援をしたり/カンボジアに教科書を送ったり/怪しげなバイトを一緒にしてみたりと、けっこういろいろ付き合ってくれた。数少ないキャンバスライフの思い出の一つである。んでもってその時も僕は、モンゴルまでの道程にそいつらを巻き込むことにした。スタートは横浜から6人、広島で2人帰り、韓国で残りの仲間達は帰国していった。

国内の移動は全て青春18切符を使った。つまり乗るのはローカル線。一度に10時間くらいウニョウニョと電車を乗り継ぎ移動する。腹が減ったら途中でメシを食い、また乗る。”次は大阪ぁ~大阪ぁ~”なんて駅名のアナウンスを聞くたびに、”おいおい、こんなんでモンゴル着くのかよ!”とツッコミを入れながらニマニマしていた。僕はもしかするとやっぱりおそらく変態なのかもしれない。

道中はというと、音楽聴いたり本を読んだりしていた記憶があるので、各々好き勝手やっていたんじゃなかろうか。今思えばホントによく付き合ってくれたものである。この場を借りて感謝申し上げます。広島ではお好み焼きを食い、原爆ドームに行き、スーパー銭湯に泊まり、フェリーに乗り、宮島に行った。宮島の鹿はまつ毛が信じられないくらい長く、厳島神社は改装中で建物の中は見れなかった。夜は借りたコテージでバーベキューをし、ペチャクチャと話した。誰ひとり酒で潰れることもなく、日付が変わる前に寝た気がする。朝起きると他の仲間達が「日の出見てきた!キレイだった!」との報告を受けた。「うむ、よくやった。」なんて団体のボスぶった記憶があるような、ないような…良く言えば程よい距離感の、悪く言えば淡白な仲間達であった。会えば喋る。誘えば来る。けど、お互いのことそこまでよく知らない。

福岡ではその仲間の一人の実家に泊まった。宿泊費浮いたラッキー、親御さんありがとうございました。朝メシ美味かったです。福岡の女の子はなんだか可愛い娘が多くて嬉しくなった。けど、あいにくスケジュール的に福岡観光する時間もなく、次の日には博多からフェリーで釜山へGO。フェリーはホバークラフトのように船体が浮き揺れが少なく、しかも高速で乗り心地はバツグンに良かった。「釜山に行ったらハチミツ食べたい!」「それはプーさんね。」というやり取りを13回くらいはした気がする。しつこい僕のボケにいちいちちゃんとツッコミを入れてくれていたのだから、やっぱりなかなかのいい奴らだったのかもしれない。そんなこんなで韓国へ着いた。

巻き込んだ、と書いたけれど、いやまったくその通りで、他のみんなとしてはせっかく韓国に来たのだから、という気持ちはそりゃもちろんあって、でも僕は生まれつき行き当たりばったりのヒーヒャーワー!を繰り返す習性があるから、一緒にいてヒヤヒヤしたろうに。ごめんよごめんよ。

釜山から電車で慶州に向かった。電車で見ていて面白かったのは、みんな携帯で大声で喋っていることと車内で謎の実演販売をしていることだった。商品を揺れる車内で実際に使って販売する。オモチャやら、洗剤やら…薄々気づいてはいたのだけれども、やっぱりここは韓国であって日本ではないようである。なんだかようやくモンゴルに少しは近づいたかな、という実感が湧いてきた。

駅に着くと、「俺が慶州案内したるで!」と無駄に笑顔のオジさんに話しかけられた。呆気に取られている仲間達の表情を視界の端っこに確認しながらも「おっけー!おっけー!」と僕は宿から移動からそのオジさんに託すことにした。仲間達の訝しげな視線はオジさんから僕へと、ゆるやかに移動した。

慶州はとても気持ちの良い街だった。お寺があり、空は広く、遥か遠くには山々が連なっていた。韓国のお寺と日本のお寺の違いを色で言えば、韓国は茶色で日本はグレーである。それは木造であることと、石造であること、土質の違い、そして周りを取り囲む景色の違いなどに起因する。オジさんは案の定、悪いヤツなんかではなく(だから言っただろ?)ちゃんとした宿とちゃんとしたお店に連れて行ってくれた。どこに行っても田舎特有のアットホームな匂いが漂う。

夜には縁日をやっていた。あまりにもだだっ広い敷地をフルに使っているものだから、なんだかそれぞれの店と店が間延びしてしまっていて、ごちゃごちゃワイワイ、時々カツアゲなんか起きちまってる祭りに馴染みのある僕らジャパニーズとしては、少し物足りない気がしないでもなかった。それでも夜風に吹かれながら、自然に囲まれながら、所々にある提灯の灯りを頼りに、同い年くらいの連中とフラフラするのは心地の良いものであった。僕は慶州が好きである。サランヘ慶州。

次いでソウルに向かった。えーっと…どうやって行ったっけ?こっちが電車だっけ?ひとまずソウルに着いた。地球の歩き方に載っていたサムライ…何たらというなんとも日本贔屓なゲストハウスに泊まった。正確な名前は何だったっけ。うーむ、ひとり旅の記憶は鮮明でも、仲間のいる旅の記憶は所々抜け落ちる。その宿はラブホテルのような、白ベースのゲストハウスで、トキメクことに男女2対2で行動していたので、もちろん男子2人/女子2人に分かれて部屋に泊まった。なぜかその時の相棒の靴下が、今でも僕の部屋にある。あまり趣味は良くないのだけれども、時々履いている。はて、ソウルで何をしたかもあまりよく覚えていない。確か他のみんなはどこかに出かけていたと思う。その間、僕はひたすら街をフラフラ。

はっきり覚えていることと言えば、飲食店のどこへ行っても、料理が来る前に前菜としてキムチが出てくる。それがやたらと辛くてその後の料理の味もへったくれもなかった。夜ゲストハウスのスタッフの英語が喋れる兄ちゃんと酒を飲んだ。本当はテレビ関係の仕事をしたかったんだけど、上手くいかなくて今はここでバイトしてるんだ。”my drem is over”と悲しそうに言っていた。

そうこうしているうちに、仲間はどうやら帰国日を迎えたようで、僕はもう1泊して中国に向かうことにした。仁川(インチョン)からフェリーで天津に行くことができる。仲間が帰った日の夜、1人になった興奮のあまり紹興酒を飲み過ぎてベロベロになり、今度はなんだかすごく切ない気持ちになってベッドで悶えていた。翌朝、仁川に向かった。出発時間はかなり早く、まだゲストハウスの受付は空いていなかった。レセプションにそっと鍵を置き、仁川へ向かう。台風がやってきているらしく、せっかく早めにフェリー乗り場に着いたのに、どうやら船は少し遅れているようである。

旅人たちの言い伝えに”出発の際に台風や嵐に見舞われると、それは素敵な旅になる予兆である”というのを聞いたことがあるぞ…と、自分に嘘をついて励まして、フェリー乗り場でジッと出発を待っていた。フェリー乗り場には中国人が沢山いた。いま流行りの中国バブリー万歳!的な家族連れの旅行の帰りというよりはむしろ、なんだか少しくたびれた、ワケあって中国に帰る、といった感じの人が多かった。果たして、フェリーはそれほどまでの遅延にならず(むしろ仲間達の乗った釜山→福岡のフェリーのほうが揺れるだのなんだので大変だったらしい。)予定より30分遅れくらいで乗ることができた。

ところで、釜山→福岡は1時間半で着くのに、仁川→天津は貨物を載せたデッカイ船であったから丸一日かかる。無数の部屋とそこに二段ベッドが沢山並んでて、食堂やらバーやら子供が遊ぶプレイルームのような場所がついている。となれば、そこそこ優雅な船旅を満喫したかというと、残念ながらレストランもバーも営業していないし、明らかに部屋の稼働率が低い。察するに、メインは荷物であって人間を運ぶのはそのオマケなようである。どうりでチケットが安いわけだ。乗客達はみなデッキに出て海を眺めたり、カモメにえさをやったりしていた。話そうにも中国語しか喋れない人ばかりであったから、どうにもこうにもコミュニケーションが取れなかった。

おやおや?ここで丸一日、俺はどうやって過ごすんだい?

時間を潰すのはなかなか大変で、持ってきたノートに絵を描いたり、モンゴルに行くからと言って友人に借りたモンゴル800の歌詞を暗唱したり、旅先でもしハプニングにであったら”冷静に状況を見つめること”なんて自分に自分で手紙を書いていたりもした。まともじゃない。


あれやこれやと手を尽くし、無事に海上の牢獄での服役を終えて地上に降り立ったのは、翌日の夕方であった。船を降りると盛大なる出迎え…ではなく大量の客引きのタクシーの運ちゃん達が、聞き取れぬ中国語を大声で連発していた。ヘトヘトだったのでテキトーにそこら辺にいたおっちゃんを捕まえて天津の中心部まで連れて行ってもらうことにした。

ぜんぶ台風のせいかもしれない。

街に近づくとタクシーの運ちゃんは突然メーターを消して、とんでもない金額を要求してきて喧嘩して、その時に自分がうっかり中国のお金を両替するのを忘れたことに気づき、銀行に急ぐもすでにどこも全部閉まっていて、けっきょく宿には泊まれず、浮浪者とともにバックパックを抱えながら駅で夜を明かし、次の日の朝は掃除のおばちゃんにモップで突かれて目を覚ますこととなった。

ぜんぶ台風のせいかもしれない。(その2に続く)

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