古典をなぜ学ぶのか

北海道教育大学釧路校において開催された国語を学ぶ会に参加させていただきました。

久しぶりの現地参加。恩師や学友と対面し、オンラインハイブリットで学ぶことができました。

小学校、中学校の実践発表と菊野雅之氏の記念講演を拝聴してきました。

全国学力調査、入試、いずれも指導要領や学びの楽しさよりももっと重要な学びの目標となっていることを、現実問題として強く認識しなくてはいけないと思いました。同時に、学びの本質からはやはりずれているなぁと。
指導要領に「問題作成者の意図を忖度する力を育てる」なんていう風に載せて、思いっきりそれを鍛えるんだ!っていうのは現状を言語化しただけのように思います。評価然り。先生が何をいいとするかを忖度してその求めるところに応じる力。それが優れていれば5。私はそんな私の枠に収まるようなことがあってほしくないなぁと常々思うところです。
システムがそうだからというところで泣く泣く、帳尻を合わせてやるか、適当にやるのが評価の現状。それを物差しに高大接続も行われているかと思うと、問題意識を持つところ大です。
文化の域に達している試験による人物評価。制度を作る人、大きな判断を下せる人にガラガラポン!をしてもらうことを願うことと、問題意識を持ち、発言して共感の波をひろげていくことが一地方教師にできることなのだろうなぁと思います。(反感もあると思います)
それにしても、現状を分析し、論理的に実践を構築し、どんな力を身に着けさせようとするかといった教師の意図をしっかり含んだ素晴らしい授業実践でした。教える授業はこのくらい意図をもって目標を定めてやるべきものだろうと思いました。
反面、学ぶ時間は意図を持たず、生徒の発見や創作物にただただ感動、共感すればいいのかなと思いました。褒める言葉をいくつ持っているか、教師が備えるべき重要な力の一つになるかもしれないと思いました。

小学校の実践では、低学年が論理を学ぶ過程の授業の様子を拝見しました。端末とノートと教科書を所狭しと机に並べて、一生懸命課題に打ち込む生徒の姿を見ていると、普段の授業の様子を推し量ることができました。幾人かの児童は積極的に手をあげて発言しようとしていました。ICTで全員の意見集約もできますが、小学校低学年だと難しさもあるのかもなと思いました。心理的安全性が保証されたクラスゆえにあれだけ手も上がるのだろうなと感銘を受けました。

もう一つの小学校の実践報告では、「緻密に構成された素晴らしい板書」しかも「それを写す必要はなく、画像を児童に配る」「主体的に学びだせるように校内連携して、先生が児童にお願いするという形で活動の動機付けを図る」「教科書中の作者の手による他の作品を図書館と連携して提示し、自由に読むことで視野を広げる活動」「郵便を出すという、実の場に結び付いた活動」が含まれた素晴らしい実践の数々が紹介されました。

菊野雅之氏のご講演では、古典がなぜ学ばれるようになったのかについてのお話から大変興味深く伺いました。
「文語が役に立っていた時代もある、しかし、今は実用性、意味、価値が消滅している」という点も私の想像に根拠をつけていただけたと感じました。
古典教材論を変えないと授業が変わらないというお言葉に大変共感いたしました。
「震災を語り継ぐ」のが難しいという具体的事例のお話しを伺う中で、地域によって、やれたりやれなかったり、やらなくてもいいようなこともあるのかなと思いました。やることに意義はありますが、現地に生きる人とそこから離れたところに住まう人では前提となる知識や体験、意欲の多寡すべてが変わります。全ての生徒に同じ教育をという思いもありますが、知識とつながる可能性を断ち切りさえしなければ、教科書、指導書に強く書いてなくてもいいのかもしれないとも感じました。逆に、震災経験地域ではその事例について深く学ぶ余地があればいいと思いますし、古典の舞台となる京都では、地域の文化を知るためにそれをフィールドワークも含めて深く学ぶこともいいと思いました。全国一統の受験で一律でやろうとするから却って学びが薄くなっているのかもしれないと感じました。
教材として取り上げられるものについての新たな視点もいただきました。
平家物語を「説得の文学」とみるのは大変興味深い指摘でした。そのような部分が教材化されれば、古典を学ぶ意義が息を吹き返せるかもしれません。「重盛がどうやって清盛を説得したのか」背景には何があったのか。読み取りたい、解釈したいと思えるような活動になりそうです。他にも「腰越状」「熊谷状」「返し状」「師の美学化の問題」こんなに豊かな内容が含まれていることに情けなくも気づきませんでした。
自力読解至上主義の文法偏重を求める入試ではなく、現代語訳でいいから、伝統文化を尊重と教訓の宝庫の対象として扱えるようにしていければいいのにと思いました。その上で自力読解に至る方法を学びたい生徒が学べるように制度やカリキュラムの整備が進むといいなと思います。今の形の受験がなくなれば、学びたいものを学んで研究者として大学に接続できるようになるのにと思いました。

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