AIが教師の仕事を必要なくする

【雑記】
標題の議論を各所でみかけます。なくなる仕事ランキングによく入る教師。果たして、人が人を教えるということはなくなる日が来るのでしょうか。私はその答えは否であると感じます。

生命倫理と同じく、できるけどしないというのと同じ要素をはらみますが、人とAI、ICTをつなげる学びが台頭してくるように感じます。

私はいわゆるエンドユーザーとして、比較的ICT機器を扱える方だと自負しています。この程度に至るのにも、相当な好奇心と探究心と時間と失敗が必要でした。また、いろんな人に頼ってもらえるおかげで、様々なケースに遭遇し、自分一人では体験しえないような数のトラブルや成果物の作成にかかわってきながらスキルアップしてきたように思います。これは今の教科教育と並行して行って多くの人が身に着けられる能力なのかと自問すると、否と感じるところです。
多くの人が身につけられないことなら、そこにビジネスチャンスが生まれます。これは日本国内だけではなく、世界中で必要とされる能力です。日本がいち早く舵を切れば世界をリードする存在になれるかもしれません。というかすでに遅れている気がしますが。

思い切って書きますが、今の教科教育の中で、郷愁を掻き立てる以外に用をなさなくなっている知識が散見される現状があります。それを整理する必要性を感じます。学問として触れることにはおおいに意義はあることに疑いないのですが、実用性を欠く知識や技術を「修得」まで求めてしまっている現状。現場では「試験があるからやらなくてはならない」という現実に悩んでいますが、「試験に関係なく学んでほしい、学ぶべきだ」という理想の元に作られる指導要領。その大いなるずれに誰もがしかたないと目をつぶってしまっています。思考停止してしまっています。帳尻を合わせるべく、どうやって欺くか。どうやって知らんふりするかに注力している現実があります。

上述のように考えているうちに、教師が必要なくなるのではなくて、今教科教育で行っていることの多くの部分をICT利活用に関する能力に置き換える転換が必要なのではないかという妄想が釜首をもたげてくるのです。
古典漢文極めた人と、Googleのツールを使いこなす人、果たしてどちらが広くグローバルに活躍できる人材となるでしょうか。
試験がある以上、どこまで行っても最終目標は前者。後者は学び方の範囲でしか体験できません。修得も求められません。生徒は評価される前者に意識が向きます。

ちょっとずれちゃっているような気がします。変えられる力、立場にいる人に気づいてもらい、覚悟をもって盤をひっくり返してもらいたいと思いながら、来週また古典の自力読解の技術を教えます。

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