「日本の現行の入試」と「主体的かつ探究的かつ個別最適化された学び」について思うこと

日本の現行の入試制度の弊害

 私は、「主体的かつ探究的かつ個別最適化された学び」が広がるためには、現行の「膨大な範囲を試験範囲とした、受験者に差をつけ、一定の知識量を持っていないものを抽出して、その者の学びの可能性を閉じることを目的とした入試」そのものがなくならねば、「主体的かつ探究的かつ個別最適化された学び」は絵に描いた餅に終わり、今後、衰退していくことになってしまうのではないかという強い危機感を持っています。

 学校で世界に比肩しうる能力を有し研究をする高校生を育てるために、ICTを利活用した「主体的かつ探究的かつ個別最適化された学び」を進めたいのですが、現行の入試で点数を取るためには一斉教授方式による詰め込み学習と模擬試験や過去問題の反復練習に軍配が上がるのは必定である以上、進学を考える学習者がいるところほど、それは難しくなります。
 今年も、模擬試験の実施と、某大手進学塾に受験テクニックを聞きに行きたくなることがそれを表しています。

「主体的かつ探究的かつ個別最適化された学び」と「現行の日本の入試の概念」の相性の悪さ

 この理由として、「主体的かつ探究的かつ個別最適化された学び」と「現行の日本の入試の概念」の本質的な相性の悪さがあげられます。

 「探究的な学び」も「主体的な学び」も、教科で分かれた中で行われる現状では、つまり、学ぶ分野が決められていたり、授業の形で教師の仕掛けがある以上、本当の「主体的な学び」や「探究的な学び」は学習者の学習意欲がでた時に始まるとするのであるなら、どこまでいっても「探究の練習」の域を出ることはできません。
 ただし、学習者にとって「今、興味がない」分野についても学ぶことが大切であるのは、「今、興味がない」というのが食わず嫌いである可能性があるからというのが大きな理由の一つです。
 そして、学習者が未知と出会う機会を各分野の専門家が保証するというのは今後も学校の果たす役割として大切なものであり続けると思います。
 それが「教科」の中で行われるのが、最上かはまた違う問題として考察中です。

試験で問う内容の見直し

 また、「現行の日本の入試の概念」の問題は範囲が広く、そのうちどれが出るかわからないことで、差をつけようとしているところにあると思います。そしてその範囲の広さは、増える一方で減ることはありません。
 例えば、国語で、高校三年間で、「主体的かつ探究的かつ個別最適化された学び」を生徒の興味が赴くまま行ったとして、現行の共通テストレベルの古典・漢文について、全学習者が自力読解できるようにはならないです。なぜなら、古典・漢文は今や日常生活では一切使われておらず、学習者にとっては未知の領域であり「教わる」必要がある分野だからです。
 辛辣な物言いですが、日本の大学で学ぶのに必要な教養であるのなら、外国人の入試に古典・漢文を出題しないのはなぜでしょうか。日本人が備えておくべき「教養」でしかないのであれば、「入試」で受験者全員に問う必要はない分野であると考えます。
 ここで誤解されることを恐れるのは、古典・漢文に学術的意義がないと言いたいわけではないということです。時代が変わり、公文書も漢文で書く必要はないし、言文一致で口語と文語を分けて書く必要もない世の中になり、全員が古典・漢文の自力読解できるようにならなくても良くなっていると言いたいのです。
 希望の大学入学を人質に取って、無理やり覚えたくもない文法事項を覚えさせ、受験が終わったら社会では使わない者がほとんど。それどころか、高校三年間で古典自力読解ができるまでになる学生の割合は少なく、学校によっては中途半端に動詞の活用の一部を知っただけで終わる場合もあります。古典文法を紹介するどころか、本当に「何のためにこれをやるのか、わからない」という状態の学習者が多数でてきているのが現実です。
 これが受験に関係なくなれば、例えば漫画化された古典作品を読むとか、現代語訳された古典作品を読み感想交流するという活動を行う方が、逆説的に、過去の偉人との時間を超えた対話という素晴らしい学びを学習者は体験することができるのです。そこから興味を持って古典文法の修得などにも意欲を示し、探究を行わんとする学習者が現れるのではないかというのは、私の妄想に過ぎないでしょうか。

これは各教科において、共通の問題をはらんでいると考えます。

入試が必要な理由

 そもそもなぜ日本では、センター試験や共通テストによる入試がなくてはならないのでしょうか。
 共通一次が始まった当時は一定の理由がありました。(参考:文部科学省 学制百二十年史 > 一 共通第一次学力試験の導入)

 他にも「入試がないと目標を失って学習者は学ばなくなってしまうのではないか」と考えることもあるかもしれません。しかし、それ自体、学びというものの捉え方がずれていると言えます。
「主体的かつ探究的かつ個別最適化された学び」は、学びたいときに始まる。これについて、社会人になった後、一定の期間を経て、学校の勉強に立ち戻ると、勉強が面白く感じる経験をする人の話を多く聞くことが関係があるように思います。このことはもっと深刻かつ真剣に考えるべき現象だったのかもしれません。
 学びたいときに学ぶべきなのです。学びたいときに学べる環境が社会に整備されなくてはならないのです。例えば、高校は18歳で卒業するところではなくていい。無理やり学びたくないときに学ばなくてもいいのかもしれません。
 他にも、「大学の入試の手間が甚大なものになる」という問題もあると思います。しかし、学びの特色や研究課題ではなく、偏差値で大学の価値がランク付けされているという不健全な状態を産み出している現行のシステムは機能していないと断じてみると、すでに何か手を打たなくてはならないところに来ているのは間違いないでしょう。これも大学の努力によるものだけではなく、金銭的、人的支援が行政からしっかりされることが重要です。

目指すべき方向性

 以上の観点から、今後、目指すべきは、義務教育で「最低限の教養」を教え終えたら、後は「学習者が学びたくなるのを待つ」という形だと思います。
 義務教育も所定の年数を所定のカテゴリーで過ごすのを重視するのではなく、資質・能力ベースに考えが変わってきているのですから、資質・能力を身に着けたと判断される時点で、「探究的な学び」をする場(今はない?)に移るという発想に変える。「飛び級」と言った考えでさえなく、「どんな価値を産み出す研究をするか」に学習者が移っていくのがいいのではないかと思います。その時、資質・能力が足りていなければ、戻って学び直せばいい。この行き来が自在な状態にすれば、学校・社会・年齢の垣根すらなくなると思います。

 これが実現すると、高等学校や大学の区分は偏差値で分けられるのではなく、どんな研究ができるか、どんな学びに特化しているかで差別化されます。その学校に所属するために試験を受けて入るのではなく、「自分が学びたいこととともに学べる人がいるところ」が学校であり、「教えを請いたい先行研究者がいるところ」が学校と考えが変わるとよいのではないかなと思います。そこには、入試は必要なく、学校への所属も必要なくなるかもしれません。ただ、学びの場があり、そこに行けば、知見を得られる人や環境があり、その人たちが充実した環境で探究しているのが学府なのです。どこの学校を出たのが重要ではなく、何を探究及び研究したのかのポートフォリオが生涯に渡って重要になります。ブロックチェーンなどの技術を使って、記録を取る仕組みを構築すれば、世界規模でこれは実現するのではないかと思っています。

 予測不能な未来に子どもたちを送り出すために、日本では教育の在り方について考えています。その時、「世界の最先端の教育に学ぶ」とは、他国の教育を「真似ぶ」だけではなく、新たなより良い形に挑戦していくことだと思います。日本型教育を他国も真似したくなるようなものにするためには、車輪の再発見に陥らないようにするためにも先行研究を参照することは大切ですが、それに囚われず、現場で挑戦することこそが肝要です。

 そのためには入試は高校までの全範囲の内容を修得したか、覚えたかで差別化する試験であってはならないと思います。せめて予習不要、「基礎技能」が修得できているかを試す、全員満点をとれるのが当たり前の試験の実施に変えられないでしょうか。記憶力に優れたできる人を抽出するのではなく、基礎技能の修得を終えていない人を確認する目的で試験が行われるとよいのではないでしょうか。

 それにしても、どうすれば、変えることができるのでしょう。
 問題が大きすぎて手に負えない気もしますが、誰かが変えてくれるのを待っているのも違う気がします。

 思い余ってつらつらと記述していたら結構な分量になりました。Facebookに載せるのも量が多すぎるように思います。

 誰の目につくことを期待するわけではありませんが、noteに以前から興味があったので、こちらに掲載してみようと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?