見出し画像

雑記(五四)

 百人一首の三十五番は、紀貫之の「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」。人のほうは、さあ、どうでしょうか、その心はわかりません。その一方で、このなじみの地では、花が昔どおりの香ににおいたっていることよ、という歌である。

 この歌は、『古今和歌集』の春上に収められていて、それにはやや長めの詞書が付されている。「初瀬にまうづるごとに、やどりける人の家に、久しくやどらで、程へて後にいたれりければ、かの家のあるじ、「かくさだかになんやどりはある」と、言ひだして侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる」という。

 初瀬に参詣するたびに宿泊していた人の家に、長いこと泊まらずにいて、しばらくたってからそこを訪れたところ、その家の主人が「こうしてはっきりと宿はあるのですよ」と、言ってきたので、そこに立っていた梅の花を折り取って詠んだ、というのである。

 大岡信は『紀貫之』(ちくま学芸文庫)で、「昔ながらに薫って私を迎えてくれた花に較べて、あなたこそ、昔とはもう気持が変ってしまったのではないか、というほどの意味にとれる歌で、形としては、ある時の皮肉に対して、皮肉のしっぺい返しをしたような体裁のものである」と述べ、さらに、「こんな口をきける相手であったということは、従来よほど貫之と親しい間柄にあった人物と考えるべきだし、さらにそれは、男であるよりはむしろ女ではないかと想像される」という。

 この歌を、少し違うかたちで伝える本もある。『土佐日記 貫之集』(新潮古典集成)によると、『貫之集』では、西本願寺本、伝行成筆切は『古今集』と同じように載せているが、その他の本では三句目が「ふるさとは」ではなく「ふるさとの」になっているという。一字の違いだが、ここが違うだけで、歌の内容は変わってくる。

 まず「ふるさとは」の場合、「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける」では、初句の「人は」と三句目の「ふるさとは」が対応する。変わってしまったらしい「人」と、昔どおりの「ふるさと」の対比になる。花はその「ふるさと」の様子を言うべく、添えられているに過ぎないと言えなくもない。

 一方で「ふるさとの」の場合、「人はいさ心も知らずふるさとの花ぞむかしの香ににほひける」だと、今度は「人」と「花」の対比になってくる。土地の様子よりも、花のほうが前景化してくるのである。

 なお、『貫之集』にはこれへの返歌も載せられていて、「花だにもおなじ心に咲くものを植ゑたる人の心知らなん」という。花でさえも昔と同じ心を持って咲いているというのに、それを植えた人の変わらぬ心を、知ってほしいものだ、ということだ。「人はいさ」の歌が「花」を恒久的な、不変のものとして扱ったのに対して、こちらでは、「花」は「人」に比べれば変わりやすいものだと見なされていて、その逆転がこの贈答の妙味になっている。

 花は毎年、同じように咲くけれども、厳密には、昨年の花と今年の花は、同じではない。人の心は変わりやすいように思われるけれども、昨年の私も今年の私も、私は私である。花も人も、同じといえば同じ、違うと言えば違うものであって、その微妙な様子が、場面に応じてうまく利用されているのである。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。