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『ウォーリアー』許されざる者と冒涜者

 『ウォーリアー』は、殿堂入りしている2010年代アメリカ映画の名作だ。大手データサイト「IMDb」では歴代200位に入るハイスコアを維持している。リバイバル上映(2024年10月11日〜17日)への推薦コメントで書いたように、総合格闘技をリアルに描いた「男泣き」映画として有名だが、米国試写でもっとも好評だったオーディエンスは女性層という珍しい立ち位置を持っている。

 おまけに「完璧な映画」と評される類とも言えず、ご都合主義的な展開に乗れない人は乗れなかったりする。なぜ圧倒的な支持を得ているのかというと、刺さる人にとっては、魂を揺さぶるなにかが宿っているからだ。監督の信仰を再燃させた亡き友人に捧げられた『ウォーリアー』には、キリスト教倫理を現代アメリカに適応させた宗教映画の面がある。霊的な製作現場だったと語られるだけあり、文学的モチーフから音楽演出に至るまで、奇跡的なシンフォニーが奏でられていく。

とり残された人々

ラストベルトの一角であるペンシルバニア州は2024年大統領選挙の天王山とされる。日本鋼鉄買収騒動で選挙を揺るがしたUSスチールの本拠地

 2011年に北米公開された『ウォーリアー』が製作されたのは、イラク戦争の泥沼化とサブプライム住宅ローン危機の真っ最中であった。ゆえに、映画を通して戦争と不況が影を落としており、銀行員と投資家といった金融業がネガティブに描かれていく。しかも、舞台はペンシルバニア州ピッツバーグの工業地帯だ。製造業が海外移転したことで経済的な打撃を受けていた「鋼鉄の街」である。オバマ政権の「希望の変化」ムーブメントにとり残されていった同州の白人労働者層が2016年ドナルド・トランプにサプライズ勝利をもたらして衆目を集めるのは、この映画のあとの話。
 振り返ってみれば、当時のアメリカで政治的にも文化的にもとり残されていた人々の傷と人情を心に響くかたちで描いた作品だったのかもしれない。『ウォーリアー』の物語自体、とり残された放蕩息子の物語である。「神なき」無情と思わざるをえない環境で怒りに駆られた男の「贖罪と赦し」、これこそが命題だ。

父子の『白鯨』

「本気で思ってたのか? 絵の裏にしまって 鍵をかけて去ってしまえば もう大丈夫だと
どこかへ行くつもりなら お前は戦争を始めたことになる」
映画のオープニング The National "Start a War"

 ピッツバーグといえば、カトリック信仰が盛んな街でもある。主人公となるコンロン家もご多分に漏れない。映画の冒頭、高齢男性のパディは、教会の集まりに出席し、車にロザリオを吊るしている。かつて家族に酷い暴力を振るっていた彼は、妻と次男に出ていかれたのち、信仰に帰依して禁酒し、改心につとめていた。酒のかわりにドフトエフスキー、メルヴィルといった文学を支えにしたようだ。つまり、パディとは、カトリック的な「贖罪と赦し」の象徴である。酷い罪を犯したが、悔い改めつづけ、神の教えにならって善良に生きようとしつづけている。しかし、そんな彼の前に「罪と罰」があらわれる。行方知れずだった次男のトミーが戻ってきたのだ。

トミーの選手時代の二つ名「テアゲネス」は富める者の家畜を屠殺していった民衆の英雄

 更生したパディに、トミーはひどく失望した。脱走兵として逮捕される前に復讐を果たそうとしたのに、おそろしかった父親はすっかり別人になってしまっていたのだ。さらに悪いことに、この息子は信仰を棄てていた。母の遺体を聖水で拭いてあげる信徒であったが、あまりに不条理な境遇、そして戦争の残酷さによって、神を信じなくなったのだ。だからこそ、信徒として禁酒を達成した父親の「生き返り」を罵るのである(キリスト教では信仰の復活を "revival" と表現する)。

「トミーのキャラクター造形で意図していたことは、神への反抗です。彼は善きものを拒絶しています。愛も美も、人生におけるすべての善を拒んでいる。こんな言葉がありますよね。『傷つけられた者は傷つける』。彼はたくさんの痛みを抱えて生きているから、常時感じているその痛みを他人に転嫁するのも簡単なんです」
ギャビン・オコナー監督

Interview with Tom Hardy, Joel Edgerton and Nick Nolte from “Warrior”

 復讐相手すら失ってしまったトミーは、トーナメント「スパルタ」に挑戦するなか、父親をかつての虐待加害者へと戻そうとしていく。この力学を象徴するのが、パディの愛読書『白鯨』である。キリスト教要素が強いこの小説の主人公は、迷惑な復讐鬼のエイハブ船長だ。とらえようとした白鯨に足を食いちぎられたことで怒りと狂気に蝕まれていき、周囲の船員をも犠牲にして復讐を果たそうとしていく。『ウォーリアー』において、かつてエイハブだったのは、戦争でPTSDを負っていたのであろう暴力家父パディであった。そして今度は、パディと貧困と戦争にひどく傷つけられたトミーが、復讐心にのっとられて家族を破壊するエイハブと化していく。監督いわく、リング上の彼は「神への冒涜」モードで、瞬発的な暴力に依存しているような状態である。

 トミーは、ひとまず目的を果たす。「昔のほうがマシだった」と責められつづけたパディが、ついに酒に手を出し、昔の暴漢に戻ったのだ。ここで、父は息子をエイハブと呼んで「船を止めろ」と頼み、さらに「信仰を持たぬ息子」だと罵る。トミーは、哀れな父親に自分の姿を見出し、エゴを捨てて優しく接する。

兄弟の救済

 『白鯨』の結末とは、復讐に取り憑かれたエイハブの死だ。この展開をなんとしてでも止めるのが『ウォーリアー』の命題である。救済の役目を担うのは、善なる長男ブレンダン。ということで、大金が賭けられたトーナメントは神のお導きかのように兄弟間決勝へと進んでいく。よく言えば啓示的、悪く言えばご都合主義なのだが、ある程度の解釈は可能だ。
 ファイターとしてのブレンダンは努力タイプだ。弟よりレスリングの才能は劣っていたようだが、UFCの経験を持つ柔術家である。「スパルタ」では秀でたコーチチームを持ち、計画を練り、感情コントロールにもすぐれていた。彼の勝利パターンとは、冷静さを保ちながら受け身に徹し、相手がミスした瞬間に極技を決めるというもの。対して、トミーは天才タイプだが、劇中では壊滅的な状態だった。PTSDに苦しめられる依存者として薬と酒を断ったあと、精神状態が悪化していき、元レスリングチャンピオンにも関わらずパンチャーとして対戦相手をなぎ倒していった。父親との衝突によってモチベーションが揺らいだ上、決勝戦では孤立無援状態だった。
 物語としても、ブレンダンは勝利にふさわしいキャラクターだ。母と弟についていかず地元に残った選択は、当時子どもだったのだから、決して悪いことではなかった。彼もつらい目に遭っていったはずだが、立派に生徒や同僚に好かれる教員となり、妻子を護ろうとしていた。賞金に関しても、アメリカの莫大な医療費を考えれば必要だ(トミーの親友の妻の場合「心配しないで」と言っていたように、米軍遺族として10万ドルに加えて給付金がもらえているはずである)。なにより、兄は、虐待した父と復讐に燃える弟を「赦す」と宣言した。コンロン家のうち、自他ともに「許されざる者」であるパディは「冒涜者」と化すトミーのあやまちを正すことも赦すこともできない。手を差しのべられるのはブレンダンだけだ。

決勝戦で流れるのはオープニングと同じThe Nationalによる "About a Today"。お互い離れていた相手を失う予感と悲しみがあたたかく歌われる

「決勝戦は、トミーの魂をかけた霊的な争いだった。比喩的に言うなら、弟は兄の手によって一度死ぬ必要があった。そうすれば、彼は生き返り、ふたたび信徒になれる。映画で説法をしたいわけではなかったが、この作品には霊性や宗教性が浸透している」
ギャビン・オコナー監督

Warrior’s Faith | Matthew Lickona | First Things

 究極的に、トミーは試合に敗けるべきである。父への憤りは正当であるものの、怒りを加害に転嫁して自己破壊の一途をたどる彼が試合に勝ったとしても、なんの平和ももたらされない。必要なのは、自分が傷ついたことを認めて、隣人に助けを求めることだ。その相手こそブレンダンなのだ。試合中、エイハブ船長のように復讐に依存して片腕を折った弟に対し、兄は愛といたわりを示しつづけた。試合を終わらせたトミーの降参の合図とは、復讐の放棄であり、兄の愛を受け容れる行為だからこそ感動的なのだ。監督の信心にならうなら、ふたたび神様を信じたことにもなる。いつもリングから一人で去っていったトミーは、最後の最後、ブレンダンと寄り添って出ていく。父親のロザリオから始まった映画は、次男の聖母のタトゥーを映し出し、幕を閉じる。

序盤と終盤のカット。後者は演者トム・ハーディーが刺れていたタトゥーを活用している

 『ウォーリアー』の結末は、劇中流されるベートーヴェン『歓喜の歌』そのままである。実在するMMAトレーナー、グレッグ・ジャクソンの指導法にもとづく演出であったため、作り手が独語歌詞とシナリオの重複に気づいたのは選曲後だったという。つまり奇跡的な偶然……あるいは、神のお導きだったのかもしれない。

「汝が魔力は再び結び合わせる 時流が強く切り離したものを すべての人々は兄弟となる 汝の柔らかな翼が留まる所で」
「そうだ、地球上にただ一人だけでも 心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ そしてそれがどうしてもできなかった者は この輪から泣く泣く立ち去るがよい」
「抱き合おう、諸人よ! この口づけを全世界に! 兄弟よ、この星空の上に 聖なる父が住みたもうはず」

歓喜の歌 - Wikipedia


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