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批判的人種理論とガガとカニエ


 リベラルなアイデンティティ・ポリティクス、その潮流への反動がそれぞれ進化していった流れを経た2020年代初期アメリカ合衆国で「批判的人種理論(クリティカル・レース・セオリー)」概念が話題になっております。

 批判的人種理論は1970代初め、法学者が考案した学問的概念だ。この理論は、白人至上主義の遺産が、米社会形成の根幹をなす法律や制度を通じて現代社会になお組み込まれていると主張している。
 批判的人種理論の支持派は、憲法の下に成り立つ米社会は白人に有利で、その社会的優位性を認める白人が増えれば、より公正な社会になる可能性がると主張する。

  1970年代由来なものの、企業にダイバーシティやインクルージョンが求められるここ10年の潮流、そして2020年ジョージ・フロイド氏殺害事件とBlack Lives Matter拡大により「白人特権=白人優位の社会」問題視がどんどんメジャーに。しかしながら、このムーブメントに乗る民主党議員は「批判的人種理論」という言葉はあまり使わず選挙運動では「構造的人種主義(システミック・レイシズム)」を用いる。一方、共和党はもちろんこの「批判的人種理論」ムーブメント批判側に回ることが多い……というあらまし。

 リベラル側で頻用される「構造的人種主義」概念ですが、民主党員セレブ代表格であるレディー・ガガが2020年度ヴァーチャル卒業式スピーチにてわかりやすく表現しています。

アメリカにおける人種差別について、自分なりの考えを私は自問しました。黒人社会を際限なく苦しめてきた構造的な抑圧や肉体的・精神的暴力に対して感じる怒りについて見つめ直した時、私の脳裏に浮かんだのは大自然でした。
アメリカにおける人種差別について考える時、私が思い描くのは、広大な森です。その森に生い繁っているのは、背の高い木々。この国の誕生と同じくらい昔からある木々。人種差別主義という種から育った木々。偏見という枝々を伸ばし、抑圧の葉を茂らせた木々。その曲がりくねった根は、土壌深く埋まり、複雑に絡み合い、もつれ合いながら成長し、しっかり張り巡らされているため、私たちがその仕組みをはっきり理解しようとしても、跳ね返されてしまうのです。
この森が、私たちの住んでいる場所です。この森は、私たち自身です。この森は、一つの社会として、私たちが何世紀にもわたって支え続け勢いづかせ続けてきた、道徳と価値体系なのです。
この国の人種差別主義を私が自然に例えて説明しているのは、それが自然と同じくらい国の隅々まで行き渡っていて、同じくらい現実的なものだからです。光が触れるところ全てに、そういった側面があります。けれども今この瞬間、私たち全員が、そのような仕組みに異議を唱え、実際の変化をもたらすにはどうすればいいか、考えるよう求められているのです。

 おそらく勉強やリサーチもかなりしたのであろう「構造的人種主義」概念の噛み砕き、そしてアーティストさながらの心に響く「広大な森」比喩表現によって印象的スピーチにしてみせる流石のガガ様感。全文を読んでみると、同理論支持派の「その社会的優位性を認める白人が増えれば、より公正な社会になる可能性がある」方向性もネガティブになりすぎないかたちで織り込まれています(ついでに「カンドネス」に重きを置く着地は、当時彼女がリリースしたアルバムのテーマとも一致している)。

 「批判的人種理論」議論に戻ると、The New York Timesが「1619 Project」を学校へ配布したこともあり、教育方面で「その理論を学校で教えるべきなのか」議論を呼んでいるとのこと(同プロジェクトの批判的紹介)。前出WSJ記事によると、内容は異なるものの、そうした類の教え方を禁ずる法律が少なくとも3州で成立(フロリダ州「歴史的出来事をゆがめる理論」、テキサス州「ある人種が本質的に人種差別的だとするような教え方」の禁止)。ほかにも最低13州が検討中。
 じつは、教育面における「批判的人種理論」と近しい事象を問題視してたスターにカニエ・ウェストがいます。ガガとは正反対の荒々しくてわかりにくい言い分になっていますが、2018年大騒動になったTMZ「奴隷制は選択に思える」インタビューで学校教育のエピソードを話してるんですね。

俺が家に帰って、俺のワイフが子どもに「今日学校で習ったことをお父さんに話しなさい」って言ったら、彼女は「お母さんは白人で、お父さんは黒人だってことを習ったのよ」って言うんだ。俺はびっくりしたよ。キング牧師の誕生日だから、そのことについて俺たちは話すべきだったかもしれないけれど、白人の教師が人種について教えるっていうのはどういうことを招くだろう。白人の教師が「あなたは黒人よ」って教えたとしたら、アメリカで黒人でいることがどういうことかってのが正しく伝わるだろうか。「カニエの娘かもしれないけれど、あんたは黒人よ」っていう嫌味として捉えてしまうかもしれない。俺の娘は精神的に自由だったはずなんだ。それなのに「人種」みたいな思考の枠組みを大人が植え付けてしまう。だから、今のような問題に社会が直面してるんだよ。
 もしも2歳や3歳の子どもだったとして、コーヒーテーブルの上に飛び乗ったとしよう。それで、あまり好きじゃないおばさんが「それの上に乗っちゃダメ!それはコーヒーテーブルでしょ!」って教えたとしよう。そしたら、お前は3歳児でコーヒーもテーブルもどうでも良かったはずなのに、高いところに登るための台に過ぎなかったものが、楽しみを阻害する「コーヒーテーブル」になってしまうんだ。そんな調子で30歳や40歳にもなってみろ。人生は「コーヒーテーブル」だらけだ!みんなをハッピーにしたいだけなのに。

 前提として、カニエは「黒人だから民主党支持者」みたいな属性から枠に当てはめるような決めつけを嫌っており、共和党トランプ支持の公表についてもシンボリックな行いとしていた節があります。この娘さんの学校教育の話にしても「精神の自由」に重きが置かれている。
 ということでガガとカニエなんですが、姿勢や受け止められ方は反対なものの、それぞれ「広大な森」に「コーヒーテーブル」、印象的で入り込みやすい抽象的な例えを用いているあたりにアーティストとしてのセンスを感じたりもしました。
 ちなみに、ヘッダーは幻に終わった2人の2009-2010年合同ツアー「The Fame Kills」キャンペーンフォトなんですが、10年経ってみるとすごいなこの2人……感あるのでステージ見てみたかったですねぇ。ド派手な欲望のポップカルチャーを誇張するかのような作風の撮影者デヴィッド・ラシャペル先生にしても、トラヴィス・スコット『SICKO MODE』アートワーク以来再燃してますし。


よろこびます