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忘れられない人⑩

しばらくすると、奈美の就職活動が本格化してきてOB訪問とか企業説明会が始まる頃になった。

奈美が、それぞれ志望の企業ごとに内容を変えた履歴書やエントリーシートの雛形を作って感想を聞いてきた。こんな気持ちってどんな単語が適切って二人で考えたこともあった。

企業の規模や傾向に合わせて内容が理路整然と纏められていた。僕は驚いてどうやって書いてるのって聞いたら、会話と一緒で相手が何を求めているのかを考えて書けば良いよって教えてくれた。
1年後、それを信じて僕も就職活動したけどそんな簡単じゃなかった。


履歴書をみて、初めて奈美が静岡出身だということに気付いた。今まで不思議と地元や家族の事が話題に出ることが無かった。

奈美は、中学生になるまで母子家庭で母親と二人で過ごしてきたこと。母親は再婚して、父親の違う小学生の弟がいること。弟は身体が弱くて出来るのなら自分が変わってあげたいと思っていること。継父は良い人だし、弟は可愛いけれど、実家には自分の居場所がない気がするという話をした。

予想に反して奈美の複雑な家庭環境に、僕はどう反応して良いのか、適切な言葉もみつからず空気を変えたくて、
「就活が落ち着いたら旅行でも行かない」
と提案した。
奈美は
「フィレンツェのドゥオーモに行ってみたい」
「何故?」
「冷静と情熱のあいだが好きだから」
「意外とミーハーだね」
と僕が揶揄ったら、奈美はふくれっ面した。
「じゃあ君はどこ?」
「フィレンツェのドゥオーモ」
と言って二人で笑った。冷静と情熱のあいだは奈美に薦められて読んで面白かったからだ。

その頃の僕は、パチンコや麻雀も一切辞めてバイトと家を往復する毎日。贅沢はバンドの練習して安い居酒屋で飲むくらいで、高い買い物は少し広いベットを新調したくらい。少し貯金も増えてきていた。このまま2、3カ月経てば贅沢しない旅だったらイタリアでも行けそうだった。

奈美は
「就活頑張れそう。」
そいういって笑ったのを今でも憶えている。

奈美が自ら命を絶った理由は一つではないと思う。でも、奈美の家庭環境も要因の一つだったのではと思っている。この時、もっと彼女の家族の話をしていればと僕はずっと後悔している。


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