「ただ書くだけ、プロセスだけを続ける」乗代雄介×保坂和志の対談を読む

群像(2019.1)の野間文芸新人賞受賞記念対談「書かないもののまなざしを忘れて書くことはできない」を読んだ。選評も読んだ。読み終わったらなぜかブログみたいなものを書きたくなったのでnoteを開設して書くことにした。

この年の野間文芸新人賞の候補者は金子薫、町屋良平、古谷田奈月、木村紅美、乗代雄介。受賞者は金子薫、乗代雄介。

選考委員が小川洋子、島田雅彦、高橋源一郎、長嶋有、保坂和志、星野智幸。

選評を読む限り、小川洋子、島田雅彦、高橋源一郎、保坂和志が乗代雄介を推している。これにて情報の羅列は終わり。以下は読んで考えたことを引用しつつ書く。この時点で何を書くかは決めていない。

保坂和志の選評を一部引用する。

併録の未熟な同感者を、私は圧倒的に支持した。これは制作過程の話だが、その過程は作品の完成を前提とした過程ではない。作品として完成するしないに拘らず過程はある。何よりもそこが大事だ。(略)肝心なことというのは「わかる」のではなく、わからないまま持ち続けるしかない。この作者の遠慮のなさに脱帽!

対談のタイトルは「書かないもののまなざしを忘れて書くことはできない」でこれは『未熟な同感者』の言葉だ。

最初の小見出し、「ずっと高いところに書かないすごい人がいる」から対談が始まる。

保坂 ほんとにすごい人は、もっとはるかはるか上を書かないで行ってしまう。書くということは鈍臭いことだから、わかり過ぎてしまう人は、その鈍臭いことができないんだよね。

このわかり過ぎてしまう人は、保坂和志にとっての樫村晴香で乗代雄介にとってのシーモアで『未熟な同感者』に登場する叔母さんで、書かないもののまなざしとは彼らの視線のことだ。

保坂 「書かないもののまなざしを忘れて書くことなどできないのだ」。(『未熟な同感者より』)これがすごく大事で、自分はたいしたことないから結局書いているんだという気持ちが僕にはあって、あなたにもあるんじゃないかと思う。

次の小見出しは「書く」ことと同等の「読む」こと

保坂 僕はまだ読んでないんだけど、上妻世海という若い人が『制作へ』という本を出して、今までの書き方とかつくり方とか制作のプロセスの話は完成された作品があるということをみんな自然に考えていて、完成された作品から逆算的に制作プロセスを語るということだったんです。でも作品の制作過程というのは、完成するしないは関係ないんだよね。乗代さんのこれでも、この作者の完成するしないのほうで考えてない。作品が完成してとか、まして作品がいいとか悪いとかというのは、だいぶ終わった価値観、芸術観のような気がする。そうじゃなくて、最近の僕の言い方だと、毎日お経を読むように書く、ただそれだけ。モノをつくるというのを、結果から切り離してプロセスだけにする。

この保坂の言葉と誌面において5ページ後の乗代の言葉は響きあっている。

乗代 声も言葉も出そうという気に....…。結局これを言うということは、たぶんどこかに宛ててということになると思うので、それは僕が全然しゃべらないからかもしれないんですけど、発話のところが障壁というか、伝えるためにと思っている時点で違うものになってしまうから、ほんとに言わないだろう、と。違うのかな?

その次のページの保坂の言葉

保坂 それは、文学が文字を読むということの大変さをスルーしているから気づきそびれるんだと思う。美術と音楽はもっと即物的なので、とっくに作品としての完成形にたどりつかないプロセスだけ、行為だけということは、美術だってみんなやっていると思うんだよね。
乗代 僕もそうです。

美術や音楽はただ描くだけ、ただ音を鳴らすだけというプロセスだけ、行為だけが確実に存在する。反対に、書くことは誰かに宛てて何かを伝える、もしくは作品を完成させる、あるいはその作品がいいとか悪いとかそういう目的のために行われてきていて、その前提には完成された作品という概念がある。

完成に向けて作品を書く→『完成された作品』→読者が読む→いいか悪いか判断するという書くことと読むことの時間的な関係が一般的には自然であるとされている。

書くことと読むことの時間的な関係をめぐって『未熟な同感者』に関する話が展開される。対談を読むことの面白さは両者が対談の時間の中で考えることが噛み合わなかったり、あるいは共鳴したりする瞬間のなかにあると個人的には考えているのだが、まさに共鳴といえる瞬間が訪れる。

乗代 今、すごくピンときました。「完全な同感者」は困難や障壁を超えたところにいるということですよね。書くこと、読むことの時間がイコールになる人は、自分以上の存在である「完全な同感者」に憧れがなきゃいけないと思います。それを僕は叔母に設定しているので、何も書いていない人として出しているんです。
保坂 そうすると、「完全な同感者」はメタフィジック、形至上学的な存在になる。だから時間の外。「読むイコール書く」の人は、時間の中の人。時間の中での出来事なので、「完全な同感者」になったら、それは書かないね。

書かないもの=わかり過ぎてしまう人=自分以上の憧れの存在=完全な同感者という存在がいる(書かないもののまなざしを忘れて書くことはできない)。しかし、一方で、そうでない存在、未熟な同感者はわかりすぎてしまうことはないからわからないまま持ち続けるしかない(太字は保坂の選評より)。ここで分かったことにして何かを完成させることを目指して、あるいは誰かに向けて書くと前述の保坂が言う作品が完成してとか、まして作品がいいとこ悪いとかそういう話になり、作品は情報伝達の手段でしかなくなってしまう。

保坂 ほとんどの小説家にとって、読むというのは英知界に逃すことだから。(略)それでどうするかというと、読むことと書くことを同等にするにはどうしたらいいかというふうに、ここでこの作者―先生というより作者―が考えた。

だからこそわからないまま、読むイコール書くを同じ時間の中で続けなくてはならない。読みながら、結果から離れた場所で、ただ書くだけ、プロセスだけを続ける。

と、ここまで書いて、「ただ書くだけ、プロセスだけを続ける」というのを今回の自分の記事のタイトルにしようと考え(繰り返しになるが群像におけるタイトルは「書かないもののまなざしを忘れて書くことはできない」)、この対談を読んでなぜ自分がわからないまま何か文章を書くことにしたのかというその動機にも近づいた気がした。一人の未熟な同感者として、時間の中で読むイコール書くを実行したかったのだと思う。実際、この文章を書いていて一度も完成形や他人の評価は考えなくて、ただ書いては対談を読み、読んでは書きをトータル六時間ぐらい鈍臭く繰り返した。その時間は読む=書くを行っていたという感覚すらある。

乗代 好きで引用した人を見ると、正直裕福で、様々な面で余裕のある人ばかりです。でも、如才なく人付き合いだってできていた、そういう人たちが本を読んで考えていたことを共有できる人はいなかった、というところにすごくジーンときちゃうんです。書いているときは、それこそ彼らが書いた時と一緒になれればという気持ちで本気で書いています。

引用した人たちが考えていたことを彼らと共有するには読むだけでは足りない。だから、読む=書くを行う。読むことと切り離された「書く」ではなく、完成を目指す「書く」ではなく、時間の中にあるプロセスだけにする。二個目の小見出しのタイトルは『「書く」こと同等の「読むこと」』だ。

最後に少し引用して終わりにする。

保坂 小説家だって、できがいい悪いとか、完成度とか傑作とかにこだわると、六十、七十になってくるとだんだん書けなくなる。小島信夫みたいにそういうこととは関係ないと、そこを切りかえるのはすごく大事なんだよね。でも、それこそが文章の解放だと思うんだよね。みんなが書ける。ブログとかでみんな書いているようだけど、文章の規範を考えて書いている訳でしょう。そうじゃなくて勝手に書けばいい。
保坂 乗代さんとしては大事な使命を負わされたわけで、早熟だけど長生きするんだよ。そこでシーモアみたいに死んだり、サリンジャーのように沈黙しないで、書くという鈍臭いことをつづけてほしい。

異なる世代、異なる文学観、異なる性格でありながら(乗代雄介が花見大会を開催したりするとは思えない)、完成や評価から遠く離れた場所で書くことだけ(もちろん読むことも)を追求したこの二人は、対談の後にそれぞれ対談に対する応答もしくは残響のような文章を書いている。

保坂和志は群像に連載されているタイトルすら固定されていない小説において、乗代雄介は『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』所収の虫麻呂雑記において。


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