「ゴッホ」という三文字 | ゴッホ展 in 東京都美術館
とある秋の日、私はほどよく疲れていた。
いま思い返すと、なんで疲れていたのか思い出せないけれど(だいたいそんなものだ)、たいそう疲れていた様子だけは覚えている。
ふと駅のホームで足が止まった。
ゴッホ。
駅貼りポスターに書かれたシンプルな三文字が私を引き止める。早々にタイトルを回収しちゃうけれど、この「ゴッホ」という三文字が、私の背負っていた疲れという荷物をひょいと軽くしてくれた。
ぶ厚くもりもりと塗られた絵の具。
眩しいような暗いような色彩。
筆の毛 一本一本まで感じるタッチ。
「ゴッホ」という文字だけを頼りに、私は頭のなかで彼の絵肌を再現し、鑑賞する。
有名な『糸杉』が16年ぶりに来日することや、東京都美術館で9月18日から開催されるといったポスター制作者が伝えたかった情報をガン無視して(私はコピーライターなので、自身がこれをやられたら泣くが……)、妄想ゴッホ展を開催した。
帰路につく足取りは、少し軽くなっていた。
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数ヶ月後。
妄想ゴッホ展の答え合わせをするかのように、私は上野の地にいた。東京都美術館をめざし、ずんずんと歩く。
見慣れた外観が見えると、人の群れのなかにいる女子高生二人組の姿が目に入った。
「楽しみだねぇ」
彼女たちはそう言った。
おお。垢抜けたイマドキの女子高生が、ゴッホ展を楽しみにここに来ているなんて。ゴッホ本人でも展覧会を企画した学芸員さんでも作品を守る監視員さんでもなんでもない無関係者だけど、うれしくなった。
楽しみだよね、もりもり厚盛り絵の具。心の中で同意する。
その日は平日だったけれど、会期終了が迫っていることもあってやや混み合っていた。さて、本物のゴッホと対面だ。人混みへ進んでいく。世界最大のゴッホ個人収集家・ヘレーネのコレクションを巡る旅へ。
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混み合う展示室内。鑑賞する時はストレスフリーでいたい主義なので、よほど見たい作品以外はサクサクと観ていく。
進んでいくと、一枚の素描の前で足が止まった。
鉛筆と黒チョーク、ゴリッゴリ。
ゴッホが画家になると決意してから2年後の作品。自身のなかでは作風というものができていない時期だと思うけれど、「ゴッホの表現」が感じられた。
ゴッホの表現は力強く、わかりやすい。
だから私は「ゴッホ」という三文字を見ただけで、作品を思い浮かべることができた。「表現の魂」みたいなものがとにかく強くて、煌々と光るそれに自分まで照らしてもらえるようで、勇気が湧く。
妄想ゴッホ展に、この素描は展示されていなかった。
というかゴッホの素描って今までちゃんと見たことあったっけ?どうだっけ?と自分の脳内美術館アーカイブに話しかけるも解答はなく、頭を本物ゴッホ展に戻す。
色のないゴッホ。これもゴッホ。
あの女子高生たちは、どんな感想を持つだろう。
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駅のホームで「ゴッホ」の文字を見つけた時と同じくらい、その日も疲れていた。
12月に入りたての、年末に向けて仕事もプライベートも慌ただしくなる時期。けれど忙しく疲れたぼろぼろメンタルでも、いいものをいいと感じられる。心も感性も生きている。しんどいけど、ありがたく幸せなことだ。
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『糸杉』『黄色い家』といった目玉作品は想像通りよかった。淡い静かな色味の作品もいい。晩年の作品からは魂の強さを感じる。観たかった絵肌たちは期待を裏切らず、私の心に沁みていく。
とある作品の画面に近づくと、表面がひび割れもせず、発色も損なわず、そこにあった。
100年以上前の作品なのに、すごい。描いた画家も、収集・保管したコレクターも、すごい(私が20年ほど前に描いた油絵は、表面がバキバキに割れてしまったものが多々ある。残念なことに……)。
美術館を出ると、すっかり日が落ちていた。
上野公園のイチョウの木がライトに照らされ、黄色く佇んでいる。私はまた、ゴッホの絵肌を想像する。心地よい刺激が肌を撫でる。
あったかいお風呂に入って、ごはんを食べて、ぐっすり眠ろう。疲れを癒して、私の表現を磨く日々に戻ろう。12月はまだ、はじまったばかりだ。
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ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント
東京都美術館
2021年12月12日まで(日時指定予約制)
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