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呉服屋の誰かのものになる前の風に揺られるシャツらの鼓動


これを書いているのは四月の半ば。
もう少ししたら五月だというのに長袖を来て外出した。暖かくならない。暑いか寒いかの二択。生ぬるいのもいやだけど、白か黒かとか行くか行かないかを問われるのもなんかいやだ。進路をみつけなさい。何かはじめなさい。別れを告げなさい。ほんとはここにいたいだけなのに、春ってそういう季節。せわしない。


せわしなくならないために、どこかに出口を見出して脱ぎ捨てるこの町。掛け違える前のボタンに熱を宿して季節と景色は等しく速度を保ちながら。いつもレコードを探している。世界がひっくり返ってしまうようなものを。探して見つけてしまって指で触れた時に、その瞬間ふわっと霧に消えてしまうような夢みたいな。そういう刹那を探しているようなもの。大した変化が生まれないのだとはわかっている。ほとんど奇跡に近いような邂逅と逢瀬がもたらすその言葉そのまんまの「あの素晴らしい愛をもう一度」を求めてしまうのだ。ちょっと前なら理解ができなくて怒りすら覚えたよくある一粒ヒットを生んだミュージシャンに「あの曲みたいな曲作ってください」ってオファーする企業の人の気持ち。いまなら少しだけわかる。一回気持ちいい部分を知ってしまった人はもう一度その夢の甘味を追ってしまうのだ。一心不乱に没頭して、切なるまま。そしてふとした時に、自分の周りの環境が変化していることに気づく。

大好きな作品『GHOST WORLD』の映画を観たのち最近は原作を読んでいた。イーニドがバスに乗り込んだのは悲しむべきことだったのか、それとも彼女にしかわからない望郷への旅としてのうつくしい未来だったのか。

窓から見た千切雲が夕日を溶かすとき、大した変化もないという動かしようもない現実の風向きが変わるのかもしれない。そういう寂しさと未知が入り混じったひかるもやみたいなものを忘れないように、秘密裏に閉じ込めておくために、はぐれものの神様は幽霊船を用意した。幽霊船は誰もが知っている船の形にもなるし。よく使っている電車の席の形にもなる。バスの一人がけの席にもなる。ファミレスの角のテーブル席の形にもなるし、頭を覆うヘッドフォンの形にもなる。パーティの角と角対角線上に立つ二人が視線を合わせて出来たそのまっすぐな一本の線にもなる。確実に相手に向けた言葉になる前の言葉が形になろうとする、その膨らみのことを指すこともある。

英米文学を専攻していた学生時代、教授から言われてハッとしたことがあった。

「対面じゃなくても出版された活字を読むこと(もしくは不特定多数に向けて書くこと)もコミュニケーションなんですよ」

この言葉がもつ寛容さを歳を経るたび痛感する。音楽を作り聴き歌詞を書き読む者として、それは特に。物や場所や風景は過ぎるしいつかは無くなるかもしれないが、そこに宿った念とか記憶は形が崩れたり失せても見えないだけで捨てなければ無くならない。僕らは知っている。たとえ忘れてしまってもそこに確かにあるのだ。失くしてしまったらふとした瞬間に返ってくることはある。
その切な細やかなニュアンスを罪深くも形にしてしまうというのは、おおよそ針の穴にふやけた糸を通すみたいな途方もないものがある。風邪を引いたときの変な夢みたいな肌触りのあれだ。でも、それを投げ捨てずにふやけたやさしい手触り肌触りのまま穴に通そうと試みるときを思う。電車の隣り合ったふた席分の小さなそれは、ファミレスの角席の少し熱を帯びたそれは、パーティーの対角線が結んだ硬い縄のようなそれは、幽霊船となって極めてやさしく内向的であたたかいところへ連れて行ってくるのだ。

長い旅をゆくバスの車窓は閉め切ったままだけど景色を眺めているだけで風が吹いてきそう。着ているシャツが風になびき、まだ誰も触れたことがない密やかな春の話を始めることができる。この町の背景として暮らしてきた生活を少しだけねじ曲げて、寂しさと未知が入り混じったひかるもやを辿って自分の話をしよう。



本でもSNSでも日記でも言葉にすれば残るし。有名な花見スポットにいくとかじゃなく何か春めいたものを食べるでもないけど。定期券が使える線路沿いに咲いている桜を電車の中から見るとかちょっと横道に逸れたがんばらない春を見つけるのが好き。今年はそういう季節でした。

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