イノセントワールド

彼は分裂している。
そしてその意識は常に散漫している。
とにかく一つのことに集中することが出来ない。

彼は統合したりもする。
その意識は極度に熱を帯び、ただ一点にだけ集中する。
そしてとにかく周囲を見ることが出来なくなる。

簡単に言ってしまえば、分裂と統合を繰り返しているのが彼である。
中華そばを食べ終わったあとに残ったスープに浮いている油が彼である。
箸でいじくるとくっついたり離れたりする、あの油である。
彼はそれを自覚している。
しかしその箸の持ち主が誰なのか、いまだによく分かっていない。

彼は絶望しきっている。
絶望が一度しか訪れないことはないということを、幾多の経験から理解している。
もはや彼自身が絶望であるとも言える。
吸着した匂いや執着した想いを身に纏っている。
しかし彼はまだ絶望の底を知らない。

そんな彼にもかつては大きな希望があった。
心躍るような壮大な夢があった。
使命感や期待に応える力強い責任感があった。
想いを形にしようとする底知れぬ信念があった。

彼は嘆いていた。
世間ではなく自らを。
思い通りにいかない自らの体を、そして心を。
分裂は彼の意思ではない。
統合も彼の意思ではない。
意思ではないところに体や心が支配されている。
意思ではないところに、無理矢理意思を近付けていく。
彼にとって意思とは、自身の裡から湧き上がってくるものではない。
どこに向かうか分からない未知なる自分の状態に気付き、現状を把握する。
そこに合わせていくのが彼にとっての意思である。
自らの一歩先を歩いている意思についていくことが、彼にとっての意思なのだ。

分裂した意思が意思を持ち、その分裂した意思によって引き寄せられ統合された意思は、果たして元の意思と何がどれだけ違うのだろうか。

ここが中華そばの油とは似て非なるものであると彼は感じている。
2というのは1+1だが、1+1は必ずしも2ではないということを彼は感じている。
彼はそこに一縷の望みをかけている。

絶望しきっている彼だが、まだ諦めてはいない。
彼は試行錯誤している。
何とかバランスを取りながら、自らを操縦している。
分裂の時には規則的に。
統合の時には恣意的に。
これが未知なる彼が導き出した現時点での操縦方法である。

そして未知なる彼は支配について考え、箸の持ち主を探している。
ずっと探し続けている。
そして地に足をつけて空を飛ぶ方法とは何かを考え、思いついては試し、そして失敗を繰り返している。
それが彼にとっての日々であり、絶望であり、僅かな希望なのである。


今日、彼は意志よりも一歩、いやそれどころか数歩先を歩くことにした。
しかし、これも分裂した意思によるものかもしれないと理解しつつ。
彼はフライングすることにした。
随分とフライングすることにした。
あわよくば、それが空を飛ぶフライングになるかもしれないという淡い期待も込めて。
そんな言葉遊びが思いつく余裕が今日の彼にはあった。


彼は思い出していた。
奇跡について思い出していた。
奇跡の軌跡について思い出していた。

そして彼は迫りつつあった。
核心に迫りつつあった。
未知なる己の物語の核心に迫りつつあった。

フライングした彼は目を閉じた。

そして振り返り、願いを込めてこう叫んだ。


「メリークリスマス、ミスターマイセルフ!」


奇跡の軌跡

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