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希望の儀式

(この日記は、今から三年前の2015年春に、持病のアトピーが大爆発した時に書いたものです)

それは、僕の身体が僕自身に対して送ったSOSであり、最後の忠告だったのかもしれない。
今いるところから次のところへ行く為に必要な儀式と言い換えることも出来なくはない。
何にせよ、その前後では僕の人生は大きく変わってしまった。
果たして僕は、今現在その信号なり忠告を正確に受け止め、そして受け入れることが出来ているのだろうか。

先日の6月30日に誕生日を迎え、新しく始まった34歳を善き一年にする為にも、僕は今自分の身に起きている出来事についてゆっくりと書いていく必要があると感じた。
これが儀式であるとするならば、もちろんまだまだ終わりは見えていないし、今も数々の執り行いの最中である。
それでもやはり僕は”自分の為”に現状を書く必要があると感じている。
この文章を書き終えた時に、僕は自分の心がほんの少しでも軽くなっていることを期待している。
そして、あわよくば笑顔が出て、周りにいる家族や愛すべき人達にもそれが伝わってくれれば幸いである。

とにかく、7月2日満月の今宵、僕は神戸の自室で宇宙からの満ちたエネルギーを浴びながら、ゆっくりと書いていこうと思う。

今から約二ヶ月半前の4月22日に、僕の身体は”突然”悲鳴を上げた。
それには、いくつかの原因となるものや段階のようなものがあるし、いつかやって来るかもしれないと頭の遥か片隅では感じていたことなのかもしれないけれど、現在普通に生活をしている僕が実際に感じたものとしては、それは”突然”現れた。
つまり、僕はこうなることを全く想像出来ていなかった。
なので、僕はそのことに少し、いやかなり戸惑ってしまった。
「あれ、なんかおかしい、いつもと違うぞ、どうしたらいいんだ」という具合いに。

僕は生まれつき(もしくは3歳くらいから)アトピー体質だった。
小さい頃から皮膚科に通い、薬を付けたり飲んだりしながら、良くなったり悪くなったりを長年続けてきていた。
数年症状が現れない時もあれば、数年症状が引かない時もあったりした。
しかし、だからと言って日常生活に支障が出る程ではなかったし、痒みや痛みや赤みや荒れや湿疹はある程度薬でカバー出来ていた。
そして、今から4年前の2011年の30歳の誕生日の時に、身の回りの物事を一旦白紙にしようとした結果、今まで行っていたアトピー治療に対して疑問を抱き、薬それもステロイドというものはあまりにも身体に負担がかかる上あくまで対症療法にすぎないということを理解し、そこからは根本解決に向けて動き出したのだった。
色々試した結果、僕はベジタリアンになり、ヨガを始めた。

最初の一年半はびっくりするくらいに順調だった。
東京では毎晩朝までお酒を飲んでいたし、インドではガンジス川に入ったり衛生的とは言えない環境で寝泊まりをしていたし、その後の西日本を周った旅でも一度も体調不良にはならなかった。
しかし、沖縄に移住して半年後の2013年の春にまたアトピーが吹き出してしまった。
それまでの人生で一番酷い症状で、僕はそのあまりの酷さに家から出ることが出来なくなってしまった。
しかしその時点で僕は無職で、妻とは入籍したばかりで、更に妻のお腹には新しい命が宿っていた状況だった為、いつまでもこんな状態ではいけないと感じていた。
至極まともな感覚である。
そして、というかしかし、あろうことか僕はまた皮膚科に行きステロイドの薬をもらい、身体や顔に塗ってしまっていた。
アトピー症状はデトックスというか一種の好転反応でもあり、ステロイドはただ症状の上から塗って押さえつけているだけというのは分かってはいたのだけれど、その頃の僕は早く動けるようになりとにかく働かなければならなかった。
それからは、また症状が出たり出なかったり、薬を塗ったり塗らなかったりを繰り返した。
漢方薬を使って治療をしていた時期もあった。
しかし、それ以降体調が抜群に良い時というのは一度もなかった。

去年の秋に家庭の事情で沖縄を離れ、一旦東京に滞在し、今年の2月から僕は妻と娘と三人で神戸で暮らし始めた。
早々に仕事を見つけ、週6日働き、休みの日は娘と遊んだり家族でディナーを食べに行ったりし、初めて訪れた土地での新生活はバタバタしながらも割と順調に進んでいた。
まさに、その矢先だった。
全く想像していなかったことが起こってしまった。
なんと、ついに薬が効かなくなってしまったのである。
季節の変わり目や花粉やPM2.5や黄砂や生活の変化やらの影響で、また全身に少しずつ症状が出始めていたのだけれど、むしろ薬を塗った方が余計に酷くなる程で、僕の身体は掌と足裏以外は全てみるみるうちに見るも無惨な状態になっていってしまった。
具体的な表現をするとはあまりにもエグくなってしまうので省略するけれど、人間の身体というものはここまで酷くなってしまうものなのかというレベルのもので、それはゾンビとか化け物といった表現の方が僕を表すものとしては近かった。

僕のような状態を、成人型アトピーと言ったり、脱ステロイドの離脱症状(リバウンド)と言ったりする。
長年使い続けてきたステロイドが蓄積されて、身体が限界にきてしまったのである。
今までステロイドで押さえていた症状が、ブレーキが無くなってしまったことによって一気に現れてきたということである。
それを改善させるには、身体に溜まった毒すなわちステロイドの影響を受けているものを抜いていくしか方法がない。
ネットで出来るだけ調べた結果、この脱ステロイド(脱ステ)は本当に過酷なもので、沢山の経験者達がブログやSNSでその壮絶な体験を語っていた。
僕は入院も考えたのだけれど、少し動くだけでも苦痛な今の状態では入院する方が色々な面でキツいと判断し、自宅で独学で療養することにした。
身体の内外を一新させ自然治癒力を高めて自力で根本から解決する、という方法である。
それは、規則正しい生活と食事療法と適度な運動という至って普通の方法ではあるのだけれど、その中でも食事制限や水分制限に関してはかなり厳密に行っている。
人間の身体、特に皮膚に関しては口から入ったものからでしかしっかり作られないのである。
お酒はもちろんのこと、コーヒーや甘いものなどの趣向品も一切摂っていない。
因みに、脱ステで入院出来る病院というのは本当に限られていて、僕が調べたところだと大阪にある病院しか見つからなかった(僕の独断だけれど全国の皮膚科医の95%は対症療法しか行っていない)。
僕は職場に現状を伝え、復帰の目処が立たないまま休職することになった。

僕は身体的にも精神的にも、そして経済的にもとても深いダメージを受けた。
それは今までで一番大きなダメージであり、一番大きなショックだった。
身体は日に日に悪化していき、とうとう完全に寝たきり状態になり、四畳半の和室に閉じこもり、僕は四角い天井や窓の外で揺れている木々をぼんやりと眺めながら、ただただもがき苦しみながら毎日を過ごしていた。
一向に改善の兆しが見えない僕の身体。
気が狂う程の猛烈な痒みと、ナイフで切り裂かれているような堪え難い痛みと、永遠に夜の闇が続きそうな睡眠不足と、その結果がもたらす皮膚の無惨な状態に加え、僕の身体から出てきた目に見えるものから目に見えないものまでが散らばっている部屋の状態に、ついに精神もやられてしまい、僕は完全に深い鬱状態に陥ってしまった。

隣のリビングから聞こえてくる妻と娘の声。
妻が料理をする音、娘が元気いっぱい遊んでいる音。
時折「パパー!」と聞こえてくる。
しかし、それに反応することが出来ない寝たきり状態の僕。
僕を必死に求めている娘と触れ合うことが出来ない圧倒的な虚無感。
絶望的状況。
僕はいつしか「死にたい」と思うようになり、実際それを口に出すようになっていた。
こんな状態なら死んだ方がマシ、と本気で思っていたのだった。

僕は心身が極限状態に達してしまったある晩に一度だけ、手元にあった白いフェイスタオルを勢いよく自分の首に回して強く結んでしまった。
力一杯左右に引っ張った。
引っ張られたタオルは摩擦で勝手には緩まなかった。
意外と苦しくはなかった。
しかし僕は前に倒れ込んだ。
こんなに簡単にしかもあっさり死ねるもんなんだな、と何故か冷静に感じていたのを覚えている。
あり得ない話だけれど、息が出来なくなることさえある意味心地良かった。
そのことの方が今の絶望的な状況よりはマシだと思っていた。
僕は目を閉じ始めた。
口を開けても一切呼吸が出来ない。
あ~いよいよか、と本気で思った。
その時だった。
「パパー!」
と、娘の声が聞こえた。
「おい、つよし!」
と、数日前に死んでしまったじいちゃんの声が聞こえた。
僕はハッとした。
朦朧とし始めていた意識から我に返り、急いでタオルを解いた。
気が付くと僕は全身を震わせながらで大きく呼吸をしていた。
畳の上にはこぼれ落ちた大量の涙が溜まっていた。

神奈川に住んでいるじいちゃんが死んでしまった。
癌だった。
今年に入ってから体調が悪化し入退院を繰り返していたのだけど、一ヶ月前から身内にだけ余命を宣告されていたのだった。
もちろん僕もそれを聞いていた。
だから僕のこの症状がそれほど悪化する前の4月の下旬に、職場に休みをもらい妻と娘を連れて一泊二日で東京神奈川に行き、もう会うのが最後になるであろうじいちゃんに会いにい行ったのだった。
娘とは初対面だった。
明らかにキツそうな状況にもかかわらず、じいちゃんは終始笑顔を貫いていた。
病室のベッドの上で初のひ孫と目を合わせ、小さい手に触れてとても喜んでいた。
この瞬間に、僕は涙が溢れてしまった。
会わせることが出来て良かった、本当に良かった、と思った。
その後、他の家族達にも会い、初対面となる娘との時間をみんなが楽しんでくれた。
一泊するホテルは東京のホームとなる三軒茶屋に取ったのだけれど、僕は症状が症状なだけに友人達に会うのは避け、その代わりに数年振りの東京滞在となった妻が茶沢の街へと繰り出した。
夜中に帰って来た妻が楽しそうだったのが嬉しかった。
この東京滞在で家族の写真をいくつか撮った。
じいちゃんと娘と妻が並んだ写真も撮ったし、母や祖母や叔母や従兄弟達とも撮った。
新たに娘が加わり、僕のいつもの家族達のいつもの笑顔が写っていた。
しかし、その数日後に、その写真での笑顔を最後に、じいちゃんは死んでしまった。
その頃寝たきり状態になっていた僕は、家族全員が出席したお通夜告別式に行くことが出来なかった。
家族達はじいちゃんが死んだことよりも僕の身体のことを心配してくれていた。
申し訳ない気持ちと情けない気持ちでいっぱいになった。
僕はまだ、じいちゃんが死んだという事実を自分の中で上手く消化出来ないままでいる。
それに、あの時助けてもらったお礼もまだ言えていない。

脱ステ開始から一ヶ月半が過ぎた頃、症状は一進一退ながらも亀のスピードで改善している手応えを感じ始めていた。
一日に30分~60分外出することが出来るようになり、調子が良い日は駅まで歩き、カフェでお茶なんかもしたり出来るようになっていた。
しかし、やはり人の目は気になってしまう。
見た目の皮膚はもちろんのこと、周りが半袖一枚の中、僕は長袖二枚を着ているという異様な状態である。
脱ステの特徴の一つとして、皮膚感覚が麻痺している為に起こる”真夏の悪寒”というものがある。
実際、長袖を二枚着ているにもかかわらず唇をガタガタ震わせていたりしていた。
更には全身の皮膚がつっぱっていて常に同じ姿勢をキープしないと激痛が走る為、あり得ない猫背になっており、その雰囲気だけでもかなり周囲の目を引く存在になってしまっていた。
ジロジロ見ないでくれ、俺のことは放っといてくれ、と心の中で訴え続けていた。
因みに髪の毛は早々にバリカンで坊主にした。

身体の調子が良い時は、少しずつ外出頻度を上げて日々のペースを作り始めた。
そして僕は、ネットで色々調べて見つけた皮膚科に行ってみることにした。
ここの皮膚科は患者としっかり向き合って寄り添ってくれる診察方法をしていて、薬の処方などもしっかり話し合って決めてくれる先生だった。
6月9日、僕は久々に朝早くから支度をして家を出て、一ヶ月半振りに電車に乗り、受付開始から10分を過ぎた午前9時に皮膚科に着いた。
ネットの口コミや実際に前日に電話していて分かっていたことだったのだけれど、待ち時間が尋常じゃなかった。
受け取った番号は10番で、その番号が呼ばれたのは実に4時間半後の13時30分だった。
通された部屋で待っていたのは、関西弁で人当たりが良く、白髪とそれに似合わず皮膚が抜群に綺麗で若々しい初老手前の先生だった。
事前のリサーチ通り、しっかり時間をかけて僕の話を聞いてくれた。
その寄り添い方は、以前沖縄で数回通っていた精神科のカウンセラーを思い出させた。
自分の現状や想いを先生に伝え、それを理解してもらったことによって、帰る頃には来る前より数%気持ちが軽くなっていた。
もちろん、薬の処方はなしで引き続き脱ステでいくことにした。
現在、隔週一回のペースで僕はこの皮膚科に通っている。

今の現状としては、やはり一進一退で一喜一憂を繰り返している。
昼と夜とでは身体も心も状態が一気に変わってしまい、夜にはあっという間に絶望へと堕ちていく。
夜はやはり地獄で、その絶望の闇はどこまでも深く暗く、僕はただただもがき苦しむしか出来なくなってしまう。
絶望に陥るといけないところは、絶望以外を感じることが出来なくなることである。
しかし、それでも朝は必ずやって来る。
以前の僕は絶望の最中では朝が必ず来るということまで思考が行き届かなかったのだけれど、今はしっかりとその先にあるモノを意識出来るようになってきた。
夜の闇の中にいても、やがて訪れる朝の光を意識出来るようになったのである。
だから僕は、その絶望から逃げたり目をそらすのではなく、むしろその絶望の中から希望を見つけてみることにした。

皮膚科の先生が言った。

「あなたの身体がこれから良くなっていくにはいくつかのストーリーが必要だと思う。
それは、身体的側面と精神的側面の両方から歩み始め、それらの出来事を一つひとつ重ねて組み立てていく必要がある。
当たり前だけれど、今の原因は一つではない。
だからあなたは、これから注意深く物事を観察していかなくてはならない」

「まずは本来の自分、好きなことや得意なこと、目指すゴールを20個以上、過去に良くなった体験をそれぞれ書き出してみる。
そして、今あなたを苦しめているものを外在化して、それに名前を付けてみる。
出来ればそれを口のある絵で描いてきて欲しい。
その絵が何を叫び、どんな言葉を使ってあなたを攻撃しているのかを教えて欲しい」

僕は信頼の出来る先生に巡り会うことが出来た。
先生とは色々な方法でコミュニケーションをとりながら向き合っていこうと思う。
そして僕自身も引き続き、身体と心と深く深く向き合い、自分のストーリーを作り組み立てていこうと思う。

皮膚から浮かび上がってくる過去の出来事。
独立したシステムである腸の観察。
発狂する程の発作時の呼吸の質。
然るべき時期に然るべき経験をしてこなかった代償。
希望と絶望が同居する空間。
自分の中で記憶を繋いでいくことの重要性(記録しただけでは記憶には残らない)。
振り返れば未来の僕がいる。

焦らずに、ゆっくりと時間をかけていくことも時には必要かもしれない。
僕のような意味不明な人生を送っているようなタイプなら尚更だ。
しかし、そこには少なからず協力者や理解者がいつもいてくれるということを忘れてはならない。
だから、まず僕がやるべきことはその人達に感謝の気持ちを伝えることである。
そこからしか先へは進めない気がしている。

一進一退、上等である。
一進するため為に必要な一退なのである。
ならばそれを大いに受け入れようではないか。
そしていつか最後に一退しなくなった時が、僕が勝利する時である。

だいぶ長くなってしまった。
実は他にも重要なことや細かい部分を書くことが出来たのだけれど、ざっと想像してみても果てしない量になってしまったので、今回はここでやめることにした。

僕の予想とは裏腹に、今宵の神戸の空は曇っていて、残念ながら満月を見ることが出来ない。
しかし、雲の向こうにそれはしっかり存在していて、綺麗な光を放っている。
僕はそれを想像し、感じようと思う。

今いる場所がどこであろうと、次の場所を目指すことは誰にだって出来るのである。

僕は今、希望と絶望を行ったり来たりしている。
しかし希望の光はしっかりと見えている。
そこを目指すことも出来る。
しかし、その光は今の僕には眩し過ぎて、今いる場所がうまく見れなくなってしまっている。
だから僕は一度後ろを振り返り、その光に照らされた自分の影をよく観察し、次に周りの状況を確認しようと思う。
そして時間をかけながら徐々に範囲を広げていき、だんだんと目が慣れ始めて足下の地面も確認出来るようになったら、向こうで光っている希望に向けて一歩ずつ歩いて行こうと思う。

過去と未来を繋ぐの記憶の旅はもう始まっている。

いつかこの希望への儀式のようなものに終わりが来たら、また改めてゆっくり書いてみようと思う。

2015年7月3日、心地良い満月の光を感じながら
上野剛史


(この三年後に書いた『続・希望の儀式』も読んでいただけたら嬉しいです)

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