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図書館に「猥褻」図書をおいてはならぬのか?~無毒化されたエロスの大切さ~

※このnoteは、筆者小宮山剛が運営している椎葉村交流拠点施設Katerie椎葉村図書館「ぶん文Bun」のホームページに掲載している読書感想シェアリングの取り組みである「ぶん文Bunレビュー」に投稿された感想に基づく記事を転載し、小宮山剛が「図書館の選書」に思うところを述べる記事です。

D. H. ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を取りあげながら「猥褻か芸術か」という議論を持ち出してくださった論者さんのレビューが嬉しくて、ついつい書き込んでしまった小宮山であります。

D. H. ロレンスのように一定の評価を得ている作家でしたらどんな描写が出てこようがOKということになるのでしょうが(そうでない館もあるかも・・・?)、新しい表現者のいわゆる「過激描写」となると二の足を踏んでしまいがちな図書館。しかし果たして、そのフィルターを設けてお客様・利用者様がふれられる表現の幅を制限してしまうというのは、本来の意味で言うところの「公共性」なのでしょうか?ただの保身にすぎないのではないでしょうか?

インターネットで低俗なコンテンツにいとも簡単にアクセスできてしまう、コンビニでくだらないエロ本が売られてしまう日本において、図書館が守らなければならないものはなんでしょうか?

それはきっと「無毒化されたエロス」にふれる場をソフトに形成することで、少年少女を中心とする「まだ害悪にふれたことのない層」をやさしく保護することなのだと思います。もちろん「エロス」の部分は様々な言葉に置換可能です・・・新興宗教、オカルト、ニュー・ビジネス、団体運動…etc.

時には強烈な毒すらも必要と個人的に思う小宮山でありますが、ここではあくまで公共図書館で皆さまに供されるにふさわしいコンテンツを語ることとします。様々な「有害」がはびこる現代社会だからこそ、図書館はそれらをシャット・アウトしようと無駄な足掻きをするのではなく、正面から立ち向かわなくてはならい。そのための方策に関する答えを、D. H. ロレンスが教えてくれているように思うのです。

・・・以下、ぶん文Bunレビューからの転載となります・・・

___以下転載文___
(転載元 https://katerie.jp/2021/03/21/reviewpost22/ )

「ぶん文Bunレビューキャンペーン」に新しいご投稿をいただきました!

ミルフィーユさん、いつもありがとうございます。海外文学でレビューを書いてくださるのは初めてだったかと思いますが、小宮山のイチオシ作家であるロレンスをお手に取りくださり嬉しいです!


\ぶん文Bunレビュー投稿方法(手書き派?ウェブ派?)/
手書きの原稿用紙をぶん文Bunのカウンターへもっていく。
レビュー投稿フォームに入力しウェブでサクッと投稿!!

※ぶん文Bunにある資料であれば、どなたからのレビューも歓迎!※

さて、ミルフィーユさんは『チャタレイ夫人の恋人』をどのように読み解いてくださったのでしょうか。あとがき・解説にもよく目を向け、社会背景にも着目したレビューを書いてくださりましたね。

『チャタレイ夫人の恋人』(D. H. ロレンス)

皆さんは「チャタレイ裁判」を知っているだろうか。第二次世界大戦が終わり、言論の自由が叫ばれた中で、訳書は一度出版されている。しかし、猥褻文書頒布とかで総計三十六回公判が行われたらしい。

わたしは物語を読み終えた後、補訳者のあとがきでこのことを知った。まず、このような裁判が行われて、今わたしたちの手元にあるのだと知った上で読むのも面白いだろう。なんだか禁じられた本を読んだ気分だ。

本書を置いているということは「芸術か猥褻か」の点で、カテリエは「芸術」と見なしたのだろう。世界と繋がるインターネットの場でおおっぴらに話すのには適さない内容が大半の物語なので、個人的な感情を含むレビューは割愛させてもらう。

ひとつ言えることは、完訳(改訂)である本書は、昭和三十九年初版刊行の旧版を尊重しているため、現代では使わない言葉や言い回しが頻出して、結構面食らった。

使われる言葉だけ捉えたら、今も昔も猥褻と判断されておかしくない。しかし、テーマは芸術だと思いたい。それも踏まえて、気になる方はぜひ読んでみて欲しい。

ミルフィーユさん、ありがとうございます。

お言葉にとても感謝したいのは「本書を置いているということは『芸術か猥褻か』の点で、カテリエは『芸術』と見なしたのだろう」というところですね。まさに「おっしゃるとおり」です!

もしかすると今の時代でも、図書館さんによっては「チャタレイ夫人はちょっと・・・」というところがおありかもしれません。たしかに、文面を読んでも映画版なんか観ても、ミルフィーユさんがおっしゃるように面食らってしまう表現が多々あるかもしれません。

しかしそれで表現の流れを止めてしまっては、それこそ戦前戦中と変わりがありません。しかもD. H. ロレンスというクラシック作家の一人が生みだした作品をそのように扱うことは、文学への冒涜とも言えるでしょう。ちなみに私は大学の卒業論文(‘The Dreaming Self on Board the Ship of Death: Voyage to the Dawn of Rose in D. H. Lawrence’s ”Last Poems”’ ※邦題「夢みる自我は死の船に乗って:D. H. ロレンスの『最後詩集』における薔薇色の夜明けへの旅だち」)でもこの作家を読んでいますから、そこらへんの方よりも彼の「芸術」をよく理解できているという自負があります。

ぶん文Bunの蔵書ラインナップをご覧いただくと、D. H. ロレンスに留まらず多分にそうした「芸術か猥褻か」という議論を呼びそうなコンテンツがあるのにお気づきいただけるかと思います。この点は実はとても大事な点で、とくに青少年の心身教育にとって欠かすことのできない点かと思っています。

現在ではインターネットを通じて「低質」かつ「有毒」な、悪質エンタメ等としての猥雑コンテンツに簡単にアクセスすることができてしまいます。そうしてしまう前に、図書館という場でいわば「良質」かつ「無毒化」された芸術的コンテンツにふれていただくこと。これこそが「健全な」(何が健全かは誰が決めるものでもないでしょうが)心身を築くことにとって重要なのです。

もっと話を広げれば、宗教やオカルトなどの世界に本を通じて「あやしいなぁ」という楽しみ方でもって接するのか、社会に出ていきなり「あなたは神を信じますか」と勧誘されて「これが本物かもしれない」と思いこんでしまうか、どちらがいいでしょうか?ということです。

どれほど賢い青少年でも、良質な本という無毒化されたコンテンツを通じた事前の「やさしい」出逢いを経ていなければ、有害な新興宗教や危険思想、マルチ勧誘なんかにコロッとやられてしまうのではないでしょうか。

・・・奇しくもこの記事を書いているのが3月21日ということで、前日の3月20日は地下鉄サリン事件がかつて発生した日付でした。オウム真理教に集ったメンバーは、学力的には非常に優秀であったのだと様々な証言・書物に記されています。彼らはたしかに優秀であった。しかし、オウム真理教の善悪を自分の基準で裁くことができなかった。

ぶん文Bunという場で培われるのは、この善悪の基準づくりでもあります。誰にも押し付けられるべきでないそれを、清濁併せ呑むなかで考えることができるようになること。とくに、椎葉村という清廉な空気と悪人がいない環境であるからこそ、図書館という場で「無毒化されたきわどいコンテンツ」にふれてほしいですね。

以上、D. H. ロレンスが出てきたことや「これぞぶん文Bunの目指すところ!」という点に言及していただいたことでアツくなってしまいました・・・。上記のような点もふまえて、ぶん文Bunの本棚を楽しんでいただけますと幸いです!

・・・・・・・

※過去のレビューを下記ページに格納し、逐次更新しております※
【ぶん文Bunレビュー投稿記録(2020年9月~)】
https://lib.katerie.jp/index.php/column-hondana/79-reviewstock

※椎葉村図書館「ぶん文Bun」に置いてある本はこちらのページにて検索できます。

(クリエイティブ司書・小宮山剛)

___以下転載文___

・・・言い過ぎでしょうか?やりすぎでしょうか?

そんなことは無いと思います。図書館は、そんなに浮世離れしているいい子いい子した施設であり続けてはならないはずです。それこそただの、人畜無害な無料貸本屋になってしまいます。

本来的に「文化的」であるならば、この記事のようなことにも果敢に取り組んでいくべきであって、椎葉村図書館「ぶん文Bun」ではまさに今取り組んでいるところです。

どうぞまた、ご声援のほどよろしくお願い申し上げます。

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