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青山美智子さんの小説を読みくらべしてみた

ひとりの作家さんの小説を集中して読み比べするのは、大学で研究していたD.H.ロレンスとか大好きなアメリカ作家フィッツジェラルド、あるいは村上春樹さん以来・・・(そうだ、愛すべき太宰治があった)・・・ということで、なかなか久しぶりの機会となった。

最近は仕事柄(椎葉村図書館「ぶん文Bun」のメイン司書)多種多様な本を並行して読むことが多かったから、こうしてひとつの小説世界にしっかりと取り組むことができて嬉しい。

今回の読み比べ対象は、標題のとおり青山美智子さんである。私が青山美智子さんの作品に出逢ったのは2020年のこと、第1回宮崎本大賞の受賞作に同氏のデビュー作『木曜日にはココアを』が取りあげられていたからだ。

「もしこの賞がなかったら、この作品に触れられる可能性はかぎりなく低くなっていたと思うんです」とあるように、きっかけをくれた宮崎本大賞には感謝しきりである。第2回宮崎本大賞では行成薫さんの『本日のメニューは。』が受賞されていて、こちらも注目の小説となっている。

今回の読み比べをしようと思ったきっかけは、図書館に携わる者なら歓喜の声をあげずにはいられない「名作」「教科書」「バイブル」…『お探し物は図書室まで』が、青山美智子さん×ポプラ社さんにて2021年に出版されたからだ。同作は2021年本屋大賞にて第2位となり、現在全国の図書館では「何をお探し?」と決め台詞を発しまくる司書が頻発しているとかいないとか…。

そんなわけで、青山美智子さんが『木曜日にはココアを』でのデビュー以来発表してこられた5作の小説をとりあげ、読み比べをしてみた!個別の作品へのレビューに加えて、後半に「読み比べることで初めてわかったこと」を書いておきたいと思っている。

それでは、どうぞご覧ください・・・。

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『木曜日にはココアを』(2017年)

 はじめて青山美智子さんの小説にふれて、グランド・ホテル方式と解釈できる構造を楽しみながらも、それだけではない感情の起伏や読後の「さっぱり感」を感じていた。
 ひとつには「理不尽のほどけ」が小説のあちこちに散りばめられていることが大きい。たとえば「のびゆくわれら」の泰子先生みたいに、一見理不尽なまでの堅苦しさや陰湿さ(と、主観の持ち主が捉えているもの)をもつキャラクターが青山さんの作品にはよく登場する。
 そして共通するのは、こうした上司、家族、不可解な隣人たちとの主観的理不尽な関係性に必ず「ほどけ」が生じることである。ここに、青山さんの作品を読みこむうえでのさっぱり感・爽快感があるように感じられた。
 多くのレビューでも書かれているとおり、文章全体に通底するやさしい雰囲気もまた、ひさびさにおとずれた休日の安寧のように僕たちをすっぽりと包んでくれる。それもまた、同氏の作品がもつ大きな魅力である。

『猫のお告げは樹の下で』(2018年)

 この作品から、青山さんの小説世界における「キャラクター力」「フィクション力」が飛躍的にアップした気がする。
 『木曜日にはココアを』ではマーブル・カフェが登場人物たちの心のよりどころとしての「場」であったが、『猫のお告げは樹の下で』ではハチワレ猫のミクジ(と、宮司さん)がいる神社が登場人物共通の「導き装置」になっている。ミクジの不思議な存在感もさることながら、宮司さんの静かなる語り・悟りがもたらす安心感も心地よい。
 本作でもけっこう人間の嫌な面が垣間見える瞬間があって、たとえばプラモデルの店主さんのひねくれ根性とか山根先生への陰口なんかは、決して心地いいだけの物語ではないという点を感じさせる。
 だからこそ、小説世界がリアルになるのだと思う。人間の喜怒哀楽、陰の部分も子細に書く・読むことではじめて、本当の「ほどけ」が生まれるのだと思う。冒頭章の「ニシムキ」で時子さんのケチの秘密に気づき「ニシムキ」の意味を知る瞬間なんか、その象徴ともいえるカタルシスに満ちていた。
 ところで、『猫のお告げは樹の下で』を読み終えてすぐ、タラヨウの葉で本当に手紙を出しましたというツイートをみかけた。そのツイート主はとくに青山さんの作品には触れていなかったのだけれど、調べてみると「#手紙の木」でけっこう日本中からツイートされていて、そこにはやさしいインターネットの世界がひろがっていた。こういう偶然の発見も、青山さんの小説から導かれたような気がして嬉しい。

『鎌倉うずまき案内所』(2019年)

 僕が大好きなキャラクターたちが登場する、お気に入りの一冊だ。
 本作の「導き装置」に常駐(?)する、そして後の「神様」にも連なるかのような「おじいさん系導き人」である内巻さんと外巻さんももちろんだけれど、何といっても黒祖ロイド氏のクールな存在感がたまらない。もう僕としては、黒祖ロイド作品を何度も読んできたかのような気にさせられちゃって、「ソフトクリームの巻」で若かりし頃の夢見が登場したとき…黒祖ロイドの名前の由来が判明したときは、まるで一人のファンみたいに喜んじゃったものだ。
 そしてもう一人、黒祖ロイドと甲乙つけ難いキャラクターが鮎川茂吉である。いま「あゆかわもちき」と入力・変換したら一発で変換されたので、もうずっと前から僕は鮎川氏のことを知っているんだと思う。
 調子よく冗談を飛ばしながらも実は人生の悲嘆にくれるにくれかねているという哀愁が、昭和のゴールデン街で酔っぱらっている姿が似合いそうな感じでたまらない(なお、本作の舞台は鎌倉などでありゴールデン街は出てこない。あくまで小宮山の想像である)。
 思えば『鎌倉うずまき案内所』では、鮎川氏や黒祖ロイド氏、そしてノギちゃん、真吾…といったようにクリエイティビティにあふれるキャラクターが多く登場するのだが、こうした要素もまた小宮山のタマラナイ・ポイントを刺激するのだと思う。
 また、昭和時代に「最初に七日、最後に七日」の創世記じみた一週間があったというのも、昭和ファンとしてはくすぐられるものがある(小宮山自身は平成2年生まれだけれど)。
 「時代のうずまき」をテーマにしている小説ということもあって、平成・昭和の懐かしさと新しさがうずまく物語構造も大変おもしろかった。大学時代に英文学の教授が「時はねじ構造である」と唱えているのを思い出したりなんかして、自分の周りにもこういう時の輪廻がうずまいているんだと考えるとすこし高揚したりする。

『ただいま神様当番』(2020年)

 バス停という共通の場から展開される物語ということもあって、登場人物たちはみな通勤・通学をしている人たちである。そんなわけで、青山美智子さんの「職業観察力」が全開になっている作品である。
 零細企業の社長、小学生・高校生、印刷会社事務に大学の非常勤講師、そしてストリッパーまで…。『ただいま神様当番』だけでなく全作品に共通することなのだけれど、青山さんの描く職業(あるいは生き方)の幅の広いこと広いこと。そしてそのどれもが「尊い職業観」を感じさせてくれるのがスゴイところである。
 地味なOL仕事に価値を見出したり、一見どこにでもあるような雑誌の編集に面白さがあることを知ったり、総合スーパーの接客の深みを知ったり…。青山さんの小説世界に登場する職業は…そしておそらくはこの世に存在する職業のすべてが、尊いのだ。魅力的なキャラクターたちが仕事に取り組む姿を見ていると、そんな気がしてくる。

『お探し物は図書室まで』(2021年)

 この小説で「導き装置」となっているのがコミュニティセンター内の図書室であり、その司書こそが最強の(?)導き人「小町さゆり」さんである。小町さんは『猫のお告げは樹の下で』にて、若かりし頃の「姫野さゆり」さんとして登場しているが、その頃から導き力に長けていたんだと思わせられる保健室でのワンシーンがあるので是非そちらも読んでいただきたい。
 司書だからといって、相談上手だからといって何もかもをわかった風になるのではなく、その人その人に寄り添いながら偶然を楽しむ小町さん。そして「みんなが地球の中心だ」(Cf. 『猫のお告げは樹の下で』)と知っている小町さんだからこそ、導き力のある図書室レファレンスができるのだと思う。
 たとえば冒頭の章において、朋香さんに対しては「エクセルの本」というリクエストを受けて『ぐりとぐら』を勧めちゃったりなんかする。一見脈絡のない本のセレクトが人生のうずまきの中で文脈を築いて、偶然が必然となる。そんなセレンディピティが、小町さんが「てきとう」と嘯く導き力によってもたらされるのだ。
 実際に図書館で働いている僕としては、これこそ図書館・図書室の力だと思う。僕は小町さんみたいに大胆なセレクトをしたり羊毛フェルトをぶすぶす作ったりはしないけれど、セレンディピティを生む仕掛けを図書館中に散りばめることならできる。つまり、本の置き方で「あれ、いい本あるじゃん」という偶然の出会いを演出するのだ。
 全国の図書館はおよそ全てが「日本十進分類法」に従っているのだけれど、僕たち椎葉村図書館「ぶん文Bun」ではよりセレンディピティを生みやすい本のディスプレイを求めて、独自分類を開発した。そういう経緯もあって、僕は小町さんの「インスピレーション」に心底共感したのだった。
 一方で、何もかもが偶然というわけではない。小町さんからお勧めの本と「ふろく」を受け取ったそれぞれの人が、それぞれの力で人生を切り開いているということが大切なのだ。その証拠に、夏美さんが「導きだ!」と思って選択する人生は、当初は実を結ばなかったりする。こういう、何もかもが偶然の力で上手くいくというわけでもないところが、青山さんの小説のリアリティだったりする。
 全部が全部神頼みや偶然というわけではなく、どんな運命にも人の血が通い努力の跡があり、体温が感じられるのだ。

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青山美智子さんの作品を読み比べてみて

①職業や生活のリアリティが色濃い

 個別レビューでも書いたけれど、登場人物たちの職業がどれも細やかに書かれていることで、物語の風景が色彩豊かになっている。一つの職業について詳細に書き込んである小説はよくあるけれど、群像劇テイストの物語でここまで細かく、しかもちょっと珍しい職業についても詳らかにされているのは珍しいのではないだろうか。たとえばプラモデル屋の店主とか、どういう発想と経験と取材とが重なって描くことになったのかとても気になる。
 またふとした瞬間ににじみ出る生活の描写が、ぐっと親近感のある文章を生み出している。たとえば保育園児の水筒のパッキンをハイターにつけるひと手間なんか「そうそう、そうなのよ!」と思わざるをえない。僕にはまだ子どもがいないというのに「そうそう、そうなのよ!」と思ってしまった。おそらくは、生活のあらゆるシーンでのひと手間を想像し、そんな共感に至ったのだと思う。
 畢竟青山さんの小説には、職業や生活のリアリティを書き込むことで生まれる「共感の瞬間」があふれているのだ。

②「あなたに向けて、書いたんです」

 僕が黒祖ロイドという作家が存在すると信じてやまない理由、そして同氏にほれ込んでしまった理由として「あなたに向けて、書いたんです」(『鎌倉うずまき案内所』の「巻き寿司の巻」)というセリフがある。
 まだデビューする前から黒祖ロイドが大切にしている信条は鮎川茂吉氏をも動かすのだが、こういう物語世界に浸っていると、なんだか黒祖ロイド氏と青山さんの声が重なってくるようにも思えてくる。つまり、青山さんの小説そのものが「あなたに向けて、書いたんです」というものなのかもしれないと思わせられるのだ。たぶん、だからこそ僕たちはここまで同氏の作品に共感するのだろう。

「どうしてそんなに、続けられるんだ?」
 単純な疑問を投げかけると、ロイドはうつむいたまま答えた。
「…………誰か、が、いるから」
 途切れ途切れの声が、シンとした部屋で不気味に響く。俺はちょっとぞくりとしながら、もう一度訊ねた。
「誰かって?」
「自分でもわからない。特定の人じゃなくて、誰かなんだ。誰かに向けて、届くべき人に届けたくて、書かずにいられない衝動で書いている。その誰かが何人いるのか、いつ届くのかもわからない。ただ、読んだ人がこれは自分に向けて書かれた小説だって思ってくれたら、きっとそのとおりなんだ」

青山美智子『鎌倉うずまき案内所』(宝島社、2021)、p.303. ※文庫版

・・・どうですか、黒祖ロイド氏。フィクション上の作家さんとは思えないでしょう?

③魅力的なキャラクター陣

 マシュマロマンとか早乙女玄馬とか白熊とかいろいろな表現で描かれる小町さん、怪しさ満点でひょうきんな神様、鎌倉の地で突如現れ忽然と消える案内所の内巻さんと外巻さん、ハチワレ猫のミクジ、マーブル・カフェのマスター…などなどの「メインキャスト陣」だけでなく、上述の黒祖ロイド氏や鮎川茂吉氏をはじめとする全キャラクターが魅力的なのも、青山さんの小説を読む醍醐味だ。
 確固とした主人公はいないけれど誰しも主役であるという全ての作品に共通する点があって、それはこの世の中そのものでもある。
 すべてのキャラクターが最終的には善良でハッピーな存在になるのだけれど、そのなかで最後までダークなままのキャラクターが一人いる。それは『鎌倉うずまき案内所』に登場する山西さんだ。
 土地を強引に買い取ろうとしたり、家電を買わせようとしたりと、信用ならないセールス関連の生き方を続けるうりざね顔の男、山西さん。彼を見ていると、その不気味さといい容貌といい、どこか『騎士団長殺し』(村上春樹)のトリック・スター「かおなが」を思い出す。彼ばかりは、好きで強引なビジネスばかりに携っているのか、組織の構造上仕方なくそうなっているのか、明らかにされていないままだ。 
 もしかするとこういうダークな存在が、青山さんの小説世界が拡大するカギになるのかもしれないと思っている。

④ほんとうの意味でのフィクション

 そうか、と夢見はうなずいた。
「私は今まで、自分が経験したことしか書けないって思ってたから、ずっと学園ものを書いてたけど。……そうだね、想像の中で創る話なんだから、考えてみたらどんな小説もみんなSFみたいなものなのかもしれない。すべてが、無限に自由」

青山美智子『鎌倉うずまき案内所』(宝島社、2021)、p.385-386. ※文庫版

 これはその後SF作家として大成する夢見のセリフなんだけれど、これもまた『鎌倉うずまき案内所』の中だけの逸話とも思われない。というのも、青山美智子さんの小説の変遷もまた、だんだんと「無限に自由」になっている気がするからである。
 2017年のデビュー作『木曜日にはココアを』では、おそらくはご自身の経験から日本とオーストラリアを舞台に据え置かれ「現実」の範囲での奇跡的な出逢いで物語が彩られていた。そして翌年の『猫のお告げは樹の下で』では、意思をもつ(と解釈できる)猫・ミクジという、すこしだけ「そんなわけない」設定が登場する。
 2019年の『鎌倉うずまき案内所』を僕が好きな理由は、小説世界の自由度が数段・飛躍的に向上するからだ。三次元世界では説明しきれない案内所の登場と消失、永遠の老人内巻さん・外巻さん、そして「所長」の存在…。同作中で夢見が語るような「想像の中で創る話なんだから、考えてみたらどんな小説もみんなSFみたいなものなのかもしれない」という気づきが、作家・青山美智子さんご本人のなかでも生まれたのが『鎌倉うずまき案内所』執筆直前のことだったのかもしれない。あるいは、もっともっと前にそんなことはご承知のうえで、満を持して同作を書かれたのかもしれない。こればかりはご本人にお聞きしないとわからないことなのだけれど、もしかすると「SFじゃない小説なんて、あるのかな」というお答えが返ってくるのかもしれない。
 そして2020年の『ただいま神様当番』では、もはや超常現象としか言いようがないお茶目な怪しさ満点の「神様」が登場する。そういう存在がいてこそフィクションは楽しいし、「いつか出会えるかもしれない」という思いこそが、「奇跡の私事化」につながるのだと思う。たとえば、ジブリ作品を見た後に「私もいつかトトロに会えるかもしれない」と思うみたいに…。
 こういう「日常のすぐそばにある非現実」が出てくると、僕はとてもわくわくしてしまう。鎌倉の街中に突如としてアンモナイトが所長を務める案内所が現れるとか、落とし物を拾った翌朝自室に怪しい爺さんがいるとか、そういう「もしかしたら自分にも起こるかもしれない」というロマンこそがフィクションの醍醐味であり、そういう物語こそほんとうの意味でのフィクションなのだと思う。

 今後も、無限に自由な世界を青山美智子さんが切り拓いていかれることを信じ、願っている。

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