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「他者の靴を履く」ブレイディみかこさんの「ぼくはイエローで…」の大人の続編、ぜひ多くの方に読んでいただきたい!!

​ おはようございます。大橋です。​ 夏休みで、なかなか対応できていなかった読書活動をようやく少し進められる時間が確保できています。昨年オトナ買いしてたくさん読んできたブレイディみかこさんの本でしたが、一番初めに感銘を受けた「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を踏まえての「大人の続編」とされる本を読むことが出来ました。久々の読書レビュですが、引用多めで既に4,000字超えてしまったので、自分なりの解釈は追記せず、ブクログにアップした内容に近い形でのnoteアップです。 それではどうぞ!


他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ

ブレイディみかこ 著 
2021年6月の本

  ブレイディみかこさんの最新本。 実際のところ「推し」な著者なので共感・感銘・なるほどなるほど多数であり、あいかわらず大変勉強になる本であった。 2020年6月に「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」 でガーーーン!となって、その後、オトナ買いしていろいろ読んでブクログやnoteにてレビューを重ねてきたわけであるが、最新本なら買わなきゃね的に買ってみました。 昨今では文庫本が週間ランキングで一位とかなっていて、文庫本の平積みの横にこちらの本もあると思います。 併せての購入をお勧めします!! 

  

 いつものように読み終わってから帯に戻ってきて、ナルホド感を確認する営みを実施したのですが、今回の帯は、多量の情報が載っており、三点のみ抜粋しておきたいと思います。

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」に次ぐ「大人の続編」本』 

『他者はあまりに遠い。“共感”だけではたどり着けない。ジャンプするために、全力で「考える」知的興奮の書!』

 『エンパシー(意見の異なる相手を理解する知的能力)×アナキズムが融合した新しい思想的地平がここに

帯ってうまいこと書くなぁ、と、いつも思う。 でもほんとその通りで、「大人の続編」という表現がごもっともだし「全力で考える」だし、「読み手の知性が試される」も、そうだが、ぐいっと一気には読み切れない、内容が濃い本だ、という印象。


 エンパシーに関する議論や見解、歴史の偉人が残してきた論点に関して整理し、(誤解の招かれやすい)アナキズムに関しても丁寧に説明してくださったりしている。 先人の論点を紹介しつつ、著者としての解釈を述べていく記載の仕方、学術的というか研究者的というか、そういうニュアンスを自分としては受けた。難しい本であったが、考えさせられる、というか考え方のヒントをまた与えてくださる本だった。

 帯だけでは伝わらない方も、「はじめに」の部分を読めば、なぜブレイディみかこさんは「大人の続編」に至ったのかもよく伝わるので、(自分なりの解釈としての)抜粋引用としたい。

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 2019年に『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本を出した。わたしは自他ともに認める売れない書き手だったが、その本だけは例外的に多くの人々の手に取られることになった。
 それだけでも驚くべきことだったが、この本にはさらに驚かされたことがあった。本の中の一つの章に、たった4ページだけ登場する言葉が独り歩きを始め、多くの人々がそれについて語り合うようになったのだ。
 それは「エンパシー」という言葉だった。
 (中略)
 わたしの推測が正しいにしろ、間違っているにしろ、あの本はそのうち「エンパシー本」とさえ呼ばれるようになった。しかしそれが素朴に「エンパシー万能」「エンパシーがあればすべてうまくいく」という考えに結びついてしまうのは著者として不本意な気がした。なぜなら、米国や欧州にはエンパシーをめぐる様々な議論があり、それは危険性や毒性を持ち得るものだと主張する論者もいる。すべての物事がそうであるように、エンパシーもまた両義的・多面的なものであって、簡単に語れるものではない。
 ならば、そうした議論があることを率直に伝え、もっと深くエンパシーを掘り下げて自分なりに思考した文章を書くことは、たった4ページでその言葉の「さわり」だけを書いてしまった著者がやっておくべき仕事ではないかと感じるようになった。
 (中略)
 そして、わたしが「わたし」という一人の人間として物事を考え始めると必ずどこからか現れるアナキズムの思想が、いつの間にか当然のようにわたしの隣を歩き始めて、エンパシーと邂逅を果たした旅の記録とも言える。「わたしがわたし自身を生きる」アナキズムと、「他者の靴を履く」エンパシーが、どう繋がっているのかと不思議に思われるかもしれない。しかし、この両者がまるで昔からの友人であったかのようにごく自然に出会い、調和して、一つに溶け合う風景を目の前に立ち上げてくれたことは、この旅における最大の収穫だった。
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 はじめに、とか、おわりに、というところは、確かによく抜粋引用することも多いけれど、読み手を引き付ける、すばらしいはじめに、だな、と素人的には思いました。



その他、いつもの抜粋引用となります。

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・P36 金子文子は、自分の靴をすっと脱ぐことができるが、彼女の靴はいま脱いだ自分の靴でしかないことを、確固として知っている。こういう人は、自分が履く靴は必ず自分自身で決定し、どんな他者にもそれを強制させない。
 先頃、東京で生物学者の福岡伸一さんとお会いする機会に恵まれた。 朝日新聞で「他者の靴を履く」ことについて対談したのだった(2020年1月1日朝刊)。
 そのときに福岡さんが仰ったことで、鮮やかに心に残った一言がある。
 「『自由』になれば、人間は『他人の靴を履く』こともできると思うんです」
 アナーキーとエンパシーは繋がっている、ような気がする、という以前からのもやもやとした考えに一つの言葉を与えられたような気がした。
 言葉。 それは解答にもなるが、同時に新たな問いにもなる。
 自らをもって由となる状態は「self-governed」であるということであり、「self-governed」という単語をLEXICO(オックスフォード提携の無料辞書サイト)は「自らを統治し、自らの問題をコントロールする自由を持つこと」と定義する。

 アナーキック・エンパシー。
 そんな言葉は聞いたこともないが、増え続けるエンパシーの種類に新たなものが一つぐらい加わってもいいのではないか。そんな大風呂敷を広げつつ、これからアナーキーとエンパシーの関係について考えていきたい。


・P64 たった一つでなければならず、たった一つであることが素晴らしいのだという思い込みから外れること。そうすれば人は自分の靴に拘泥せず、他者の靴を履くために脱ぐことができるようになるのかもしれない。
 言葉はそのきっかけになれる。既成概念を溶かして人を自由にするアナーキーな力が言葉には宿っているのだ。


・P101 力のある人は仕事を失っても次の仕事がある。雇用主や政府に文句を言う前に自分の成功は自分の手で掴みなさい。仕事がない人、生活が楽にならない人は努力が足りないのです。黙って歯を食いしばり、寝る間も惜しんで力を尽くせば報われる。わたしがそうしてきたのだから、あなたたちにできないわけがない。これがサッチャーのしばきポリティクスの裏にある信条だった。

うーーん、運動能力不足でも、へたくそでもラグビーを続けてきて、GRITという言葉にも至り、自分としては大事な価値観だと思っている「努力」という言葉、確かに環境においては用いてはいけない概念になる可能性はあるといういことですね。(親の経済格差が子どもの学習環境に及ぼす話とか)


・P107 ちなみに、同サイトではself-help(自助)の意味はこうなっていた。
 自分や、自分と似たような経験や逆境にある人々のため、公的組織に行かないで必要なものを自分自身で与える行為

   ここで面白いのは、ケンブリッジの英英辞典サイトに記された定義には、「自分」だけでなく、「自分と似たような経験や逆境にある人々」が共に入っているところで、そうなってくると「自助」は非常に身内的で、自分と似た立場や考え方の人々に感じるシンパシーにも繋がる。

自助・共助・公助の件、確かに自分の身は自分で守れというところは自分としてはごもっともなのだけれど、格差の話になっていくと、自分の力ではどうすることもできないという問題にもぶつかると聞いています。


・P121 曰く、「自分の気に入らないことを誰かが言うとき、わたしたちはあまりに容易に自衛的になったり、相手の議論を歪めて勝とうとする。でも、わたしたちがそれをすると、誰のためにもならない。」これなどは、いわゆるツイッターなどでの「論破」が実は建設的ではないこと、論破合戦を繰り広げることはそれ自体がゲーム化し、彼らがそもそも変えるべきと言っている状況はほとんど何も変わらないこととも似ている。


・P143 コグニティブ・エンパシーとは瞬時に他者の感情が伝染するような類のものではなく、相手がその感情を抱くようになった理由を深く論理的に探究するための学習と訓練の果実なのだと思う。


・P245 本書の冒頭で、アナーキーとエンパシーは繋がっている気がする、というきわめて主観的な直感を述べ、アナーキック・エンパシーという新しいエンパシーの種類を作る気概で書く、と大風呂敷を広げたのだったが、実は両者は繋がっているというより、繋げなくてはならないものなのではないか。アナーキー(あらゆる支配への拒否)という軸をしっかりとぶち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものに変わってしまうかもしれないからだ。両者はセットでなければ、エンパシーそれだけでは闇落ちする可能性があるのだ。


・P273 この言葉で思い出すのが、アナキズムと民主主義はおおよそイコールで結べると言ったデヴィッド・グレーバーだ。違う考え方や信条を持つ人々が集まってひたすら話し合い、落としどころを見つけて物事を解決していくのが民主主義の実践だと彼は言った。つまり、アナキストの学校はこれを忠実に行っていることになる。


・P290 子どもたちが自分で物を考えなくなったとか、自分の意見を言えなくなったとかいう前に、我々大人たちは、彼らが進んで何かを言う気になるアナーキーでエンパシーある空間を提供しているかどうかを考えてみなければならない。
 しかし、現代の学校現場では、試験や進学のための知識が重視され、エンパシーのようなものは「ソフト・スキル」として軽視される。このことについて、ゴードンはこう話している。

 教育の目的は何なのかと聞きたくなります。国のGDPに貢献するだけの市民を育てることが目的なら、「ハード・スキル」に重点を置けば達成できるでしょう。でも、人々の経済的な貢献を超えた、別の部分でのシティズンシップとは何でしょう?社会のソウルとは何でしょう?教育の成功を規定する測定基準とは何でしょう?子どもたちに読むことを教えるのと同じように、他者と関わることを教えるのも重要です。


・P296 「アナーキー」は暴力や無法状態と結びつけて考えられやすい。しかし、その本来の定義は、自由な個人たちが自由に協働し、常に現状を疑い、より良い状況に変える道を共に探していくことだ。どのような規模であれ、その構成員たちのために機能しなくなった組織を、下側から自由に人々が問い、自由に取り壊して、作り変えることができるマインドセットが「アナーキー」なのである。
 そう思えば、機能しなくなった場所、楽しさも元気もない組織、衰退している国などにこそ「アナーキー」のマインドセットは求められている。そしてそのマインドセットをもって人々が緑色のブランケットの周りに集まって話し合い、「いまとは違う状況」を考案するときに必要不可欠なスキルこそ「エンパシー」という想像力に他ならないのである。

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抜粋引用に、太字にすることで、私が何を感じてこの部分を共有したくなったか、なんとなくわかっていただけると思っています。 なかなか考えさせられる本なので、一気に読み切れる、というわけではなく、読み進んで、思案し、という読書ではありましたが、ぜひ夏休み期間中に多くの方に読んでいただきたい本でした。 とてもよかったです。

それではいつものブクログレビュをリンクし、今週も閉めたいと思います。よろしければ「スキ」いただけると励みになります。よろしくお願いいたします。​


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