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映画『るろうに剣心』に込められた「新しい時代」への願いについて。

【『るろうに剣心 最終章 The Final』&『The Beginning』/大友啓史監督】

2012年、大友啓史監督が佐藤健を主演に迎えて製作した映画『るろうに剣心』。同作の商業的・批評的成功を受け、その勢いのままに、2014年に公開された続編『京都大火編』『伝説の最期編』。そして、コロナ禍による公開延期を受けて、ついに2021年、シリーズの完結編となる『最終章 The Final』&『The Beginning』が公開された。

計5本の作品を通して、同シリーズの製作陣・キャスト陣が実現を目指したこと、それは、日本が世界へ誇るエンターテインメント作品の創出であった。

約10年間にわたり最高打点の更新を目指し続けてきた旅路は、決して生半可なものではなかっただろう。そのことは、既に公開されている様々な撮影時のドキュメントを見れば明らかであり、何より、スクリーンに映る一つ一つの画から、製作陣・キャスト陣の果てしない気概が伝わってくる。



このシリーズを構成する要素を挙げていけばキリがないが、まず何よりも特筆すべきは、それぞれの作品の要を担うアクションパートだ。

縦横無尽に展開していく殺陣をベースとしながら、肉弾戦と銃撃戦、更にはパルクールの要素まで取り込み、そして一つ一つのアクションを、極めてスピーディーでロジカルな編集をもってして紡いでいく。大友監督、そして、アクション監督の谷垣健治をはじめとする製作陣は、妥協なきトライアルを積み重ねながら、今まで誰も観たことのなかったアクションシーンの撮影に挑み続けた。

そして、佐藤健は、そうした製作陣の想いを一身に背負いながら主人公・緋村剣心を演じ続けた。1作目の公開当時22歳だった彼は、まさに自身の役者人生を懸けるかのようにして、「このアクションが格好良くなければ、僕は役者を辞めます。」と宣言。そして、ストイックで誠実な姿勢と懸命な努力によって、製作陣が抱く高い期待を超え続けていく。

その結果、それまでの日本映画の既存のフォーマットには決して収まりきらない未知のアクション映像が次々と生まれていった。この日本で、また、これほどまでに大規模なメジャー作品で、ここまで徹底的にアクションシーンのクオリティを追求し続けられたことは、それ自体が一つの奇跡であり、また同時に、製作陣とキャスト陣の限界への挑戦の成果に裏付けられた必然でもあった。



シリーズを俯瞰して振り返ると、作品を重ねるごとに、各作品におけるアクションパートの比重が大きくなっていることが分かる。そして、『The Final』の中盤以降では、もはや、ドラマパートではなく「アクションで物語を語る」という境地へと達している。

その中でも特に、剣心と雪代縁(新田真剣佑)の最終決戦は本当に凄まじい。熾烈を極める闘いが加速していくほどに、両者のアクションは極限まで洗練されていき、刀と刀、肉体と肉体、最後には、魂と魂のぶつかり合いへと至る。

一つひとつの動作で感情を表し、戦いの展開を通して物語を紡ぐ。言葉を介することのない身体表現は、まさに世界共通言語であり、この感動と興奮は、間違いなく海を越えていくはずだ。



一方、『The Beginning』のアクションパートは、それまでのシリーズ作品とは、大きくそのテイストが異なっている。

『The Final』までのアクションパートにおいては、剣心が振るっているのは「逆刃刀」であり、つまり、敵を斬るのではなく打撃していく、という戦い方だった。一方、『The Beginning』の製作においては、過去の剣心、つまり「人斬り抜刀斎」が敵を惨殺するアクションが再発明された。決定的に異なるのは、一つひとつの動作に、人を殺めるという覚悟が宿されていることだ。だからこそ、『The Beginning』の殺伐なアクションパートは、息を飲むほどに恐ろしい。



次に、2本の完結編のドラマパートについて。

『The Final』は、主人公・剣心に対する縁の「私怨」を巡る物語であり、つまり今回、剣心は縁に対して謝るべき立場にある。

本来、広く受け入れられるためのエンターテインメントを追求するのであれば、まさに1作目がそうであったように、今作においても明快な勧善懲悪の構図を設定すればよかったはずだ。しかし、今作におけるテーマは「贖罪」であり、だからこそ、そこには分かりやすいカタルシスなど生まれようもない。

『The Final』が追求したのは、これまで味わったことのない未知の映画的体験であった。剣心と縁が胸の内に抱く感情は、とても言葉だけでは表し切れないもので、だからこそ、佐藤健と新田真剣佑は、その葛藤と逡巡と覚悟が重なり合うような複雑な感情を、先述のアクション、また、渾身の演技に託した。

そして、魂と魂のぶつかり合いという究極のドラマを通して、「贖罪」の物語が、見事にエンターテインメントへと昇華されていく。そこに生まれる全く新しい形の映画的カタルシスについて、これ以上に言葉で説明するのは野暮かもしれない。



剣心の「十字傷の謎」に迫る『The Beginning』では、『The Final』より更にシリアスな方向へと物語の舵が切られていく。

原作者・和月伸宏は、一度は少年漫画としてのエンターテインメント性を極めた『京都大火編』を描き終えた後に、どうしても『人誅編』(『The Final』の原作)、そして、『追憶編』(『The Beginning』の原作)を描かざるを得なかったと振り返っている。

それは映画の製作陣たちも同じで、剣心の原点である「十字傷の謎」を描かずに、このシリーズを終えることはできない、という強い想いがあった。そして今回の『The Beginning』では、それまで観客が観たことのなかった剣心のオリジンストーリーが描かれていく。

剣心の十字傷とは、壮絶な哀しみの象徴であり、そしてその背景には、想像を絶するほどに悲痛なラブストーリーがあった。物語の核心に触れることになるので、ここでは詳細は割愛するが、きっとシリーズのファンであれば、剣心と雪代巴(有村架純)のドラマに、強く心を震わせられるはずだ。



このように、『The Final』と『The Beginning』は、同時期に製作された二部作という関係性でありながら、物語の時代設定、演技や演出のトーン、アクションのテイストをはじめ、何もかもが大きく異なる。しかし、それぞれの物語を貫く一つの明確なメッセージがあることを、最後に記したい。

今回の2作品、そして映画『るろうに剣心』シリーズには、「新しい時代」への切実な願いが込められている。

かつては人斬り抜刀斎として、多くの命を殺めてきた剣心は、不殺の誓いを立て、逆刃刀を手に、数々の矛盾や不条理と戦い続ける。それは、誰もが平和に生きることができる「新しい時代」の到来のためだ。

「新しい時代」とは、劇中においては明治時代のことを指すが、このシリーズが伝えようとするメッセージは、今まさに幕を開けたばかりの、僕たちが生きる令和時代へと通じている。

劇的な変化の時代を生きる僕たちは、一人ひとりがそれぞれの未来に向けて、この世界の矛盾や不条理に立ち向かっていかなければならない。だからこそ、時代の変化に幾度となく翻弄されながら、それでも未来のために、何度も壮絶な死闘に挑み続ける剣心の意志と覚悟、つまり「侍」としての精神性に、僕たち観客は何度も奮い立たされるのだ。


僕は、それこそが、エンターテインメントの輝かしい可能性であると思う。映画は、たとえそれがフィクションであったとしても、巨大な狂気と哀しみに満ちた現実に打ち勝つための力を、たしかに僕たち観客に授けてくれる。

その意味で、このコロナ禍において、『The Final』『The Beginning』が公開されることは、とても希望的であると思う。今こそ、エンターテインメントが真価を発揮する時代であり、そして僕たち観客は、その可能性を強く信じている。

約10年間にわたり、エンターテインメントの光を灯し続けてきた全ての製作スタッフ、キャスト、そして大友監督に、最大限の敬意と感謝を表したい。




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